桑折藩の歩み
藩主は奥平系の松平家(奥平松平家)で、徳川家康の娘婿・奥平信昌の孫にあたる松平忠弘の養子、松平忠尚を藩祖とします。家格は帝鑑間詰譜代大名でした。
その後、忠弘に血のつながった孫の松平忠雅が生まれたため、元禄元年(1688年)、養子の忠尚には新田分の二万石(白河新田藩)が分けて与えられました。これが桑折藩の始まりです。実の孫に本家を継がせるため、養子を分家に出した形です。やがて本家が備後福山へ移ると、忠尚の家は桑折に自前の陣屋(桑折陣屋)を置き、桑折藩として領地を治めはじめました。延享四年(1747年)に上野の篠塚へ移され、桑折藩はなくなりました。
その後、この地は幕府領(天領)となり幕府の代官所が置かれました。
廃藩のあと—銀山と生糸と、一揆の土地
桑折藩は延享四年(1747年)に松平忠尚が上野篠塚へ移って廃藩となりました。幕末には存在しません。以後この地は幕府領となり、桑折に代官所が置かれます。
なぜここに代官所が置かれたのか。答えは半田銀山です。慶長のころに開発され、江戸後期には佐渡・生野と並び称される有力な銀山となりました。幕府の財政を支えた山です。明治になってからは五代友厚が経営を引き継いでトロッコなどの西洋技術を導入し、明治十七年(1884年)まで三年続けて銀の産出量日本一を記録しています。採掘は昭和二十五年(1950年)まで続きました。
もうひとつ、この地方を支えていたのが養蚕と生糸です。そしてそれが一揆の原因そのものになりました。
慶応二年(1866年)六月十五日から「七日八晩」続いた信達一揆です。信夫・伊達の両郡全域に広がりました。原因は蚕種と生糸の改印・冥加金の徴収、そして物価の高騰と助郷の負担でした。四十九か村、百六十四戸が打ちこわされ、要求は通っています。指導者の菅野八郎は「世直し大明神」と呼ばれました。武州一揆と並ぶ、この年の代表的な一揆です。
桑折は奥州街道の宿場であり、ここで羽州街道が分かれる追分の町でもありました。戊辰戦争では軍勢の通り道にあたりますが、桑折町そのものでの戦闘の記録は見つかっていません。近隣では慶応四年閏四月二十日に福島で世良修蔵が暗殺されています。
いま桑折町に立つのが旧伊達郡役所です。明治十六年(1883年)の擬洋風建築で、国の重要文化財。郡役所の現存建物としては最大規模です。地元の大工・山内幸之助と銀作の手によります。所在地が「桑折町字陣屋」であることに、代官所の記憶が残っています。
半田銀山では、鉱石を運んだトロッコの橋脚が百五十年以上を経ていまも残ります。
伊達氏が生まれた土地
桑折は、のちに仙台六十二万石の大名となる伊達氏の発祥の地です。文治五年(1189)、源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦で手柄を立てた常陸の武士・朝宗が伊達郡を与えられ、この地に移って伊達を名のりました。伊達氏は桑折の西山城などを拠点に勢力を広げ、戦国時代には一族を各地に配して奥州の大勢力となり、やがて伊達政宗が現れます。西山城の跡は「桑折西山城跡」として国の史跡になっています。伊達氏の源流の地に、江戸時代には徳川家の血を引く奥平松平家の分家が陣屋を置いたことになります。
本家・奥平松平家の幕末—武蔵忍藩
桑折藩の松平忠尚に分家させて本家を継いだ松平忠雅の家は、その後、陸奥白河から備後福山、伊勢桑名と移り、文政六年(1823)に武蔵の忍(おし、いまの埼玉県行田市)十万石へ入って、ここで明治を迎えました。忍城は戦国時代、石田三成の水攻めに耐えた「浮き城」として知られる城です。幕末の忍藩は、江戸に近い譜代の藩として江戸湾の警備にあたり、戊辰戦争では新政府に従っています。
一方、分家の忠尚の家は桑折から上野の篠塚、上里見を経て小幡藩主となり、こちらも幕末まで続きました(篠塚藩・上里見藩)。実の孫に本家を継がせるために分家に出された養子の家も、本家とならんで徳川の時代の終わりまで残ったのでした。
場所・アクセス・地図
桑折陣屋跡
〒969-1651 福島県伊達郡桑折町万正寺本丸
参考資料:Wikipedia日本語版「桑折藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

