【藩名】
梁川藩
【説明】
蝦夷地は度々幕府の管轄する領地となり梁川に転封された松前氏は、まず財政難に直面しました。蝦夷においては商場知行という形で知行地を家臣に与えていたが、梁川では石高制度に切り替える必要があり、その収入も家臣団を賄えないほどに激減しました。松前氏は財政規模に合わせて240名余りの家臣を除籍し、梁川に連れてくることができた家臣は111名でした。
松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていません。それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、松前氏はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけていました。その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)でした。
ついに国替えの沙汰が下り、梁川藩は松前氏に蝦夷地を返還されたため再び廃藩となりました。その後、梁川は再び幕府の管理地となるが、安政2年(1855年)には松前氏の飛地領となり、明治4年に福島県に属するまで、松前藩(館藩)(松前藩)、ついで館県の一部とされました。
蝦夷地を取り上げられた藩
梁川藩は、松前家が蝦夷地を失ったときに与えられた代わりの土地でした。
幕府による蝦夷地の接収は段階を追って進みます。寛政十一年(1799年)にまず東蝦夷地を七年の期限つきで上知し、享和元年(1801年)にはその永続化を決めました。そして文化四年(1807年)二月、西蝦夷地も収公されて蝦夷地は全島が幕府の直轄となります。同年三月十二日、松前章広は陸奥国伊達郡梁川九千石へ移されました。
理由については、ロシア船に備えて厳重に警備せよという沙汰がありながらこれを怠ったからだとする説と、幕府が蝦夷地を直接支配する方針を固めたからだとする説があります。
松前家にとってこれは減封どころの話ではありませんでした。蝦夷地の交易から上がる運上金によって数万石格とみなされていた家が、九千石の小藩になったのです。しかも蝦夷では商場知行という形で家臣に知行を与えていたため、梁川では石高制に切り替えなければならず、収入は家臣団を養えないほどに減りました。二百四十名余りを除籍し、梁川へ連れて行けたのは百十一名だけでした。
ふたたび松前へ
松前家は梁川で目立った政治を行っていません。倹約と粗食を旨とし、領民と事を構えないことを第一として、ひたすら幕府と公家に蝦夷地への復帰を働きかけ続けました。
それが実ったのが文政四年(1821年)十二月です。ロシアの脅威が弱まったという名目で蝦夷地一円の支配を戻され、松前へ帰りました。実際には賄賂と人脈による請願運動の成果だったといわれます。復帰の日付は十二月四日とも七日とも記され、資料によって分かれます。梁川藩はここで廃されました。
幕末、梁川はふたたび松前家の土地になる
ここが見落とされやすいところです。安政二年(1855年)二月、幕府はふたたび蝦夷地を直轄しました。このとき松前家は、代わりに陸奥の梁川と出羽村山郡の東根であわせて三万石を与えられています。出羽尾花沢の一万四千石を預り地とし、年一万八千両の手当金つきでした。
つまり梁川は、文政四年からしばらく幕府領となったあと、安政二年からふたたび松前家の飛び地になったのです。ただし梁川城はすでに破却されており、松前家は無城大名でした。
その後、松前藩(館藩)は戊辰戦争で当初は奥羽越列藩同盟に加わりながら、勤王派の正義隊が藩政を握って新政府側に転じます。明治二年の版籍奉還で館藩となり、梁川はその館藩、ついで館県の一部として明治四年まで続きました。「明治になって松前藩が梁川へ移された」という言い方を見かけますが、正しくは安政二年以来の飛び地がそのまま続いたということになります。
梁川城跡と、伊達郡の幕末
梁川城の跡は福島県伊達市梁川町にあります。もとは伊達氏の本拠で、令和元年十月に「伊達氏梁川遺跡群」として国の史跡に指定されました。福島県の史跡・名勝にも「梁川城跡及び庭園」として指定されています。本丸跡には平成二十七年まで梁川小学校があり、その校庭跡に庭園「心字の池」が復元されました。東北地方の中世の館で内部に庭園跡が確認されているのは、いまのところここだけです。
幕末の伊達郡は支配が入り組んでいました。寛文四年の上杉家の相続問題で天領となり、貞享三年(1686年)に桑折代官陣屋が置かれています。寛保二年(1742年)には白河藩主の松平定賢が保原に陣屋を構え、十七か村およそ二万石を支配しました。福島藩領、梁川藩領、下手渡藩領なども入り混じっています。
この地方を語るうえで欠かせないのが蚕です。安永二年(1773年)、伊達・信夫両郡の十七か村が営業税を幕府に納めて「奥州蚕種本場」の銘を得ました。安政六年(1859年)の横浜開港で蚕種と生糸が主要な輸出品となり、文久年間には横浜から出た生糸のおよそ四割を奥州産が占めたと伝わります。幕末の伊達郡は、日本が世界と結ばれた最前線の一つでした。
戊辰戦争では、伊達郡の下手渡藩が慶応四年三月に官軍側につくことを決め、八月十四日に仙台藩兵二百名が領内へ侵入、十六日に陣屋を焼き討ちされています。藩は同年九月に藩庁を筑後の三池へ移して廃されました。
【桑折藩・場所・アクセス】
梁川城跡
〒969-1651 福島県伊達郡桑折町万正寺本丸
【桑折藩マップ】

