上里見藩/松平家2万石:松平忠恒 小幡藩へ移封となり廃藩

上里見藩 松平家2万石 最後の藩主 松平忠恒
目次

上里見藩の歩み

上里見藩は寛延元年(1748年)八月、篠塚藩主であった「松平忠恒」が移封されたことから立藩しました。表高は二万石。忠恒は奏者番・寺社奉行を兼務した「松平忠暁」の次男で、自身も奏者番と寺社奉行を兼務しています。上里見藩主となった同年閏十月には若年寄となり、「徳川吉宗」の死去に当たってはその諸事を処理する役目に当たりました。

その後も「徳川家重」や「徳川家基」ら歴代将軍の下で功績を挙げたことから、明和四年(1767年)上野甘楽郡などに所領を移され、以後、松平(奥平)氏は「小幡藩」として存続することとなりました。この移封により上里見藩は廃藩となります。

廃藩のあと—里見氏の郷で、陣屋町が打ちこわされた

上里見は上野国碓氷郡、いまの群馬県高崎市上里見町です。この土地はもともと房総の里見氏の発祥地でした。里見義俊が保元元年(1156年)に館を構え、里見義成が建久三年(1192年)に里見城を築いています。十一代の義実が嘉吉元年(1441年)に房州白浜へ移るまで、二百六十年余りここが里見氏の居城でした。

その地に、寛延元年(1748年)から明和四年(1767年)までの約二十年だけ上里見藩が置かれます。陣屋は上里見の神山宿の南にあり、神山三町が城下町として整備されました。松平忠恒が甘楽・多胡・碓氷の三郡へ所領を移されて廃藩となり、小幡藩が成立します。

幕末のこの一帯は、幕府直轄領・大名領・旗本の知行地・寺社領が入り混じっていました。安房勝山藩が群馬郡に飛地を持ち、白川陣屋を置いていたことも分かっています。上里見の村が具体的にどこの領地だったかまでは特定できませんでした。

幕末の出来事としては、かつての陣屋町だった神山宿が打ちこわしの舞台になっています。『榛名町誌』には「神山宿と打ちこわし」「天狗党の通行と下室田村」「世直し一揆」といった項目が並びます。

天狗党といえば、元治元年(1864年)十一月十六日の未明に下仁田戦争が起きています。水戸天狗党九百二十余名と高崎藩が戦い、高崎藩が敗れました。戦死は高崎藩三十六名、天狗党四名。捕虜となった高崎藩士七名は青岩河原で処刑されています。

なお慶応四年の東山道軍が上里見を通ったかどうかはわかっていません。東山道軍の進路は中山道の板鼻・安中・松井田筋です。

里見城跡は高崎市の史跡に指定されています。上里見の庚申宮や道祖神、道標も市の重要有形民俗文化財です。ただし上里見陣屋(神山陣屋)跡そのものは、市の文化財の一覧に見当たりませんでした。

家康の娘・亀姫から始まった奥平松平家

上里見藩の松平忠恒の家は、「奥平松平家」と呼ばれます。そのはじまりは、徳川家康の長女・亀姫と、三河の武将・奥平信昌の結婚でした。信昌は天正三年(1575)、わずかな兵で長篠城を守り抜き、武田勝頼の大軍を引きつけて織田・徳川連合軍の勝利(長篠の戦い)につなげた人物です。その功で家康の娘婿となり、二人の四男・忠明は家康の養子として松平の姓を与えられました。

忠明は大坂の陣のあと、焼け野原となった大坂の町の復興を任されて大坂藩主となり(大坂藩)、のちに播磨姫路の大名となります。上里見藩の忠恒は、この忠明の家を婿養子の筋で受け継いだ家系にあたります(父方の血筋は大給松平家です)。長篠城の籠城と家康の娘との縁から出た家が、江戸中期には若年寄として将軍の葬儀を取りしきる立場にあったのです。

上里見から小幡へ—明和事件のあとに入った城下

明和四年(1767)に忠恒が移った上野の小幡には、それまで織田信長の次男・信雄の子孫である織田家が藩主として住んでいました。ところがこの年、尊王思想を説いた学者・山県大弐が幕府に捕らえられる「明和事件」が起き、織田家の家老が大弐と親しかったことなどを咎められて、藩主の織田信邦は出羽へ移されます。その空いた小幡に入ったのが奥平松平家でした。

以後、奥平松平家は小幡藩主として明治を迎えます。小幡には織田家が築いた大名庭園「楽山園」が残り、整備されて公開されています。尊王論の弾圧で織田家が去った城下に、家康の外孫の家が入り、その家が百年後に尊王の世の到来を迎えたことになります。

里見氏のふるさと

上里見の地は、のちに房総で戦国大名となった里見氏の発祥の地でもあります。江戸時代後期に曲亭馬琴が書いた『南総里見八犬伝』は、この里見氏をモデルにした物語です。

若年寄20年、神山宿の市

大給松平の血と忠明家の名跡

この家の始まりは松平忠尚です。唐津藩主・大給松平乗久の子で、白河藩主松平忠弘(忠明の子)の婿養子となり、元禄元年(1688)に新田分2万石を分けられて陸奥桑折に陣屋を置きました。忠恒は享保21年に桑折藩主となり、延享4年(1747)に上野などへ所領を移されて篠塚藩、寛延元年(1748)8月に上里見へ住まいを移しています。家格は譜代です。

三代の将軍に仕えた若年寄

忠恒は吉宗・家重・家治の3代にわたり約20年間、若年寄を務めました。宝暦12年(1762)12月には幕府財政の担当(勝手掛)となり、老中の松平武元とともに財政を主導したとされます。明和2年(1765)の実際の石高は2万5203石でした。

堰と市と宿場

領内では春日堰・松原堰の整備や新田開発、神山宿での定期市の開設を行いました。宝暦10年の神山宿と室田宿の争いで神山宿に有利な判決が出たのは、忠恒の立場が影響したともいわれます。小幡へ移ったあと、嘉永3年(1850)には忠恵が「城主格」を認められ、維新後この家は子爵となりました。

考察:幕閣の領主と地元の利害

領主が幕府の中枢にいることは、領民にとって裁判や市の許可で有利に働くこともあった。神山宿の一件はその一例と読めます。上里見藩の短い時代は、幕閣大名の権勢が地方の暮らしにどう届いたかを示す小さな窓だと思います。

場所・アクセス・地図

関東の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次