【藩名】
篠塚藩
【説明】
延享4年(1747年)7月、陸奥桑折藩主であった「松平忠恒」が陸奥伊達郡など1万2250石の所領を上野国に移され、邑楽郡篠塚村に陣屋を構えたことから篠塚藩を立藩しました。表高は2万石です。翌年8月、忠恒は所領を碓氷郡などに移されたため、その後は上里見藩として存続することとなり、篠塚藩は短期間で廃藩となりました。
陣屋があったのかどうか、疑問が残ります
篠塚藩は延享四年(一七四七年)に成立し、翌延享五年(寛延元年・一七四八年)には廃藩となりました。一年ほどです。
藩庁は上野国邑楽郡篠塚村、現在の群馬県邑楽郡邑楽町篠塚とされます。ただしここに疑問があります。
藩主の松平(奥平)忠恒は定府大名——参勤交代をせず江戸に常駐する大名でした。しかも在任はわずか一年。そのため「忠恒が篠塚に居所を構えたことには疑問の余地がある」と指摘されています。陣屋が実際に建てられたかどうか、確かなことは分かりません。
そのあとの篠塚
忠恒は碓氷郡の上里見村へ移り、上里見藩が成立しました。明和四年(一七六七年)には小幡藩へ移封となります。
そして明和五年(一七六八年)、篠塚村は幕府領となりました。
幕末、この家は甘楽の小幡にいました
忠恒は篠塚を出たあと上里見藩へ移り、明和四年九月に甘楽郡の小幡藩へ封じられました。以後、奥平松平家は小幡の主として幕末を迎えます。三代・松平忠恵は嘉永三年に城主格を許され、これ以後この陣屋は「小幡城」と呼ばれるようになりました。幕末の当主は四代・松平忠恕で、安政五年に奏者番、文久二年に寺社奉行を務めています。
元治元年、小幡藩は天狗党を見逃しています
高崎市が公開している高崎学検定の講座資料は、下仁田での戦いにあたって周辺各藩がどう動いたかを並べています。それによると、小幡藩と七日市藩は天狗党の乱の一行に脇道を案内して通過を容認しました。吉井藩は戦う意思がないと伝えて傍観し、安中藩は碓氷関所の守衛を建前に出陣、川越藩は支度だけして参陣していません。実際に下仁田で戦ったのは高崎藩で、戦死者は高崎藩三十六名、天狗党四名と記録されています。篠塚を一年で去った家は、百十数年後、上州西部で天狗党を素通りさせる側に回っていたわけです。
篠塚村そのものは、館林と幕府領のあいだにありました
旧高旧領取調帳によると、明治のはじめの邑楽郡は一町九十一村で、幕府領が三十八村、館林藩領が一町四十村、前橋藩領が一村、残りが複数の支配にまたがる村でした。郡はほぼ幕府領と館林藩領で二分されていたことになります。館林藩の幕末については【現地取材】館林城跡と幕末の館林藩に書きました。ただし篠塚村そのものが幕末に誰の支配だったかは、今回調べた範囲では確かめられませんでした。陣屋跡の石碑や説明板も、邑楽町が公開している文化財の一覧には見あたりません。
【場所・アクセス・地図】

