【現地取材】水の都にそびえる大垣城を歩く——鳥羽伏見からの大転換、新政府軍先鋒となった大垣藩

美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)は、周囲を清流に囲まれた「水の都」として知られています。その中心に立つのが大垣城。江戸時代には譜代の名門・戸田家10万石の大垣藩の居城となり、幕末には鳥羽・伏見の戦いで一度は朝敵とされながら、劇的な方針転換で新政府軍の先鋒を務めました。実際に大垣城とその周辺を歩いてきました。

木立の向こうにそびえる大垣城天守
大垣公園の木立の向こうにそびえる大垣城の天守。
目次

大垣城とは——水の都に立つ再建天守

大垣城は麋城(びじょう)・巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれ、築城の時期や築城者には諸説ありますが、戦国時代から美濃と西国・江戸を結ぶ交通の要衝として争奪の的となりました。永禄2年(1559年)に氏家直元(卜全)が城主となって大規模な拡張を行い、豊臣秀吉配下の伊藤盛景・盛宗の代に天守が築かれたと伝わります。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成ら西軍の本拠地となりましたが、敗戦とともに落城。江戸時代に入ると徳川家譜代の石川家を経て、寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が入封し、以後明治維新まで戸田家が居城としました。氏鉄は治水の名手としても知られ、慶安2年(1649年)には大垣城を大改修して4重4階の天守を含む近世城郭として完成させています。天守は昭和11年(1936年)に旧国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)の大垣空襲で惜しくも焼失。現在の天守は昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、平成23年(2011年)の外壁改修で戦前の姿に近づけられました。

大垣公園に立つ戸田氏鉄の騎馬像
大垣公園に立つ戸田氏鉄の騎馬像。治水事業と大垣城の大改修で藩の礎を築いた名君として、今も城下を見守る。

幕末の大垣藩——鳥羽伏見からの大転換

戸田家10万石の大垣藩は、中山道と美濃路が交わる交通の要衝を治める、幕府にとって重要な譜代藩でした。第11代藩主・戸田氏共は第二次長州征討に参加し、慶応2年(1866年)から藩政改革を断行していますが、慶応4年(1868年)に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは大垣藩兵も旧幕府軍として新政府軍と戦い、朝敵に指定されてしまいます。しかし新政府に出仕していた藩士・小原鉄心が急ぎ大垣に帰国し、先々代藩主・戸田氏正とともに氏共や佐幕派を説得。藩論を尊王へと統一し、謝罪してその許しを得ると、戊辰戦争では一転して新政府軍・東山道軍の先鋒を務め、北関東や奥羽の戦いにも出兵しました。明治2年(1869年)には新政府から賞典禄3万石が下賜され、版籍奉還で氏共は大垣藩知事に任命。明治4年(1871年)の廃藩置県で大垣藩は廃藩となり、大垣県を経て岐阜県に編入されています。譜代大名でありながら土壇場で新政府方へと舵を切り、その後は主力として戦い抜いた大垣藩の歩みは、幕末の譜代藩が下した苦渋の決断をよく物語っています。

晴天の下、大垣城天守を背に立つ戸田氏鉄像
晴天の下、大垣城天守を背にした戸田氏鉄像。氏鉄が築いた藩の礎は、幕末の子孫・氏共の代まで受け継がれた。

現地を歩いて感じたこと

訪れた日はよく晴れ渡り、白い天守が青空に映えていました。大垣公園に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが戸田氏鉄の堂々たる騎馬像です。治水の名手として大垣を水害から守り、城と城下町の礎を築いた名君の姿には、単なる装飾以上の存在感がありました。大垣は今もあちこちに清流が流れる「水の都」として知られ、城の周囲を歩くだけでも水路や湧水の気配を感じます。鳥羽・伏見の戦いで朝敵となりながら、わずかな期間で新政府軍の主力へと転じたという大垣藩の劇的な歴史を思うと、この穏やかな城下町の風景もまた違って見えてきました。

アクセス(所在地)

大垣城は岐阜県大垣市郭町2-52の大垣公園内にあります。JR大垣駅から徒歩約7分です。

まとめ

大垣城は水の都・大垣に立つ、戸田氏鉄が築き上げた近世城郭です。幕末には鳥羽・伏見の戦いで一度は朝敵とされながら、小原鉄心らの尽力で藩論を尊王に統一し、新政府軍の先鋒として戊辰戦争を戦い抜きました。譜代大名でありながら土壇場で歴史の大転換を体現した大垣藩の姿を、ぜひ現地でも感じてみてください。各藩の詳しい歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。

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