東京・文京区、小石川の一角に、徳川家ゆかりの古刹「伝通院(でんづういん)」があります。徳川家康の生母・於大の方の菩提寺として知られるこの寺は、実は幕末史においても見逃せない舞台でした。のちに新選組を生む「浪士組」が、この寺で結成されたのです。徳川家の菩提寺を歩きながら、そこに刻まれた幕末の記憶をたどってきました。
徳川家の菩提寺・伝通院
伝通院の正式な名は「無量山 傳通院 寿経寺」。徳川家康が、生母・於大の方(伝通院殿)を葬ったことから、徳川家ゆかりの寺として厚く保護されました。境内墓地には、家康の母・於大の方をはじめ、二代将軍秀忠の娘・千姫、三代将軍家光の正室・孝子の方など、徳川家に連なる女性や子女の墓が数多く並びます。江戸の徳川家の歴史が、静かに息づく場所です。


墓地の一角には、著名人の墓所を示す案内板も立っています。徳川ゆかりの人々から幕末の志士、近代の文人まで、じつに多彩な顔ぶれがこの寺に眠っていることがわかります。

新選組はここから始まった——浪士組結成の地
伝通院が幕末史に登場するのは、文久3年(1863年)のことです。将軍・徳川家茂の上洛にあたり、その警護のために腕の立つ浪士を集める「浪士組」が江戸で募集されました。これを幕府に建策したのが、出羽庄内出身の志士・清河八郎です。集まった二百数十人の浪士たちは、この伝通院(塔頭の処静院)に集結し、隊としての体制を整えました。
浪士組には、天然理心流の近藤勇や土方歳三、沖田総司ら試衛館の面々、そして芹沢鴨らも加わっていました。彼らは京へ上りますが、清河八郎の本当の狙いが尊皇攘夷の先鋒になることだと判明すると、隊は分裂します。京に残った近藤・芹沢らが、のちの「壬生浪士組」——すなわち新選組となりました。一方、清河に従って江戸へ戻った者たちは、庄内藩お預かりの「新徴組」となります。つまり伝通院は、新選組と新徴組、両方のルーツともいえる地なのです。

清河八郎の墓——「回天の魁士」
浪士組を生み出した清河八郎は、出羽・庄内(現在の山形県/庄内藩)の裕福な郷士の家に生まれました。江戸で学問と剣を修め、尊皇攘夷の志士として「虎尾の会」を結成するなど活動します。浪士組を率いて京へ上ったのち、これを尊皇攘夷の実行部隊に転じさせようと画策しますが、その動きを危険視した幕府によって、江戸で暗殺されました。文久3年、まさに時代が大きく動き出す年のことでした。

境内には、清河八郎の墓とともに、彼を陰で支えた妻・お蓮(阿蓮)の墓も並んでいます。時代の渦に呑まれた志士とその妻が、静かに眠っています。

沢宣嘉の墓——七卿落ちの公卿
伝通院にはもう一人、幕末を象徴する人物が眠っています。公卿の沢宣嘉(さわ のぶよし)です。沢は尊皇攘夷を掲げる急進派の公家で、文久3年の「八月十八日の政変」で京都を追われた「七卿落ち」の一人として、長州へと逃れました。その後、但馬で挙兵した「生野の変」にもかつぎ出されるなど、波乱の幕末を生きます。

維新後は一転して新政府に出仕し、長崎府知事や外務卿など要職を歴任しました。倒幕に身を投じた公卿が、新しい国家の外交を担う立場になった——その歩みは、幕末から明治への激動をそのまま映しています。

千姫の墓——徳川の姫君
幕末の志士たちと並んで、伝通院には江戸初期を彩った姫君も眠っています。二代将軍・徳川秀忠の長女、千姫です。

千姫は、わずか七歳で豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大坂の陣で豊臣家が滅びると救い出され、のちに本多忠刻と再婚します。天樹院と号したその生涯は、戦国から泰平の世への移り変わりを生きた女性の物語として知られます。
現地を歩いて感じたこと
徳川家の菩提寺に、その徳川を倒そうとした側の志士たちが眠っている——伝通院を歩いていると、この不思議な取り合わせに、幕末という時代の複雑さを思わずにはいられません。家康の母が眠る寺で新選組の母体が生まれ、その同じ墓地に倒幕の志士が葬られている。歴史の皮肉と巡り合わせが、静かな境内に凝縮されているようでした。
アクセス(所在地)
伝通院は東京都文京区小石川にあります。都営地下鉄・春日駅や東京メトロ・後楽園駅から徒歩圏で、水戸徳川家の庭園・小石川後楽園からも歩いて行ける距離です。あわせて訪ねると、小石川に刻まれた幕末の記憶をより深く感じられます。

まとめ
伝通院は、徳川家康の生母・於大の方や千姫が眠る徳川家ゆかりの寺でありながら、のちに新選組を生む浪士組が結成され、清河八郎や沢宣嘉といった幕末の志士が眠る、幕末史の隠れた要所でした。華やかな戦いの場だけでなく、こうした静かな寺にも、時代を動かした人々の物語は刻まれています。新選組の記事や全藩情報とあわせて、幕末の世界を深掘りしてみてください。

