高須藩(尾張藩支藩)
藩の歩み
尾張藩の二代藩主・徳川光友の次男、松平義行は、信濃の伊那・高井・水内の三郡に三万石を持っていました。元禄十三年(1700年)三月二十五日、そのうち高井・水内郡の一万五千石が、美濃の石津郡・海西郡の領地と取り替えられます。義行はこれを機に美濃の高須に藩庁を置き、高須藩がふたたび立てられました。
尾張藩主の子が開いた藩だったことから、高須藩は、尾張藩の本家に跡継ぎがいないときに藩主を出し、本家を支える役割を担いました。ただし、領地は幕府から直接与えられたもので、尾張藩から分けられたものではないため、厳密な意味での支藩とはいえません。それでも三代藩主の松平義淳は徳川宗勝として尾張藩八代藩主となり、五代藩主の松平義柄も徳川治行として九代藩主・徳川宗睦の養子に迎えられています。
十代藩主の松平義建には男子が多く、その子たちは幕末の各地で藩主となりました。次男は尾張藩十四代藩主の徳川慶勝、三男は石見浜田藩主の松平武成、五男は高須藩十一代藩主から尾張藩十五代藩主となり、のちに一橋家を継いだ松平義比(茂栄)です。七男は会津藩主の松平容保、八男は桑名藩主の松平定敬で、十男の松平義勇は高須藩十三代藩主となりました。戊辰戦争では、新政府についた尾張の兄・慶勝と、旧幕府側で戦った会津・桑名の弟たちが、敵味方に分かれています。
明治二年(1869年)の版籍奉還で、藩主「松平義勇」は高須藩知事に任じられ、同年七月に養子の松平義生へ家督を譲りました。その後明治三年(1870年)、尾張藩に併合され高須藩は廃藩となりました。
本家・尾張藩との関係と「高須四兄弟」
高須藩は、御三家筆頭・尾張藩(名古屋藩・徳川家)の支藩です。この藩は、幕末史に名高い兄弟を世に送り出したことで知られます。
高須松平家からは、尾張藩主となった徳川慶勝、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬ら、いわゆる「高須四兄弟」が出ました。彼らは幕末、慶勝が新政府方に、容保と定敬が佐幕方にと、敵味方に分かれて戦うことになります。実の兄弟が時代に引き裂かれた悲劇として、いまも語り継がれています。高須藩は、その数奇な運命の源となった藩でした。
藩主が二歳と三歳で交代していたころ、兄たちは京都と会津と桑名にいました
高須藩の幕末を一行で言うなら、こうなります。この藩で活躍した人は、ほとんどこの藩を出ていった人です。
幕末の高須藩主だけを追っても、出てくるのは幼児ばかりです。十二代松平義端は生後二か月で襲封し、三歳で亡くなりました。十三代松平義勇は数え二歳で継ぎ、戊辰戦争のときは満八歳か九歳、数え十一歳で隠居しています。いっぽう同じ家から出た兄弟は、尾張藩主、一橋徳川家、会津藩主、桑名藩主として、幕末の中心に四人並んで立っていました。
三万石の御連枝
高須藩は美濃国石津郡高須、現在の岐阜県海津市にありました。元禄十三年(1700年)三月二十五日、名古屋藩主徳川光友の次男である松平義行が、信濃に持っていた三万石のうち一万五千石を高須と交換して再立藩し、三万石となりました。
位置づけは尾張藩の支藩、いわゆる御連枝です。宗家に嗣子が絶えたときに相続して名古屋藩を輔弼する立場にあり、宗家から米金の援助や要職への人員派遣を受けていました。江戸の上屋敷が四谷(現在の東京都新宿区荒木町)にあったので「四谷松平家」とも呼ばれます。藩庁は高須陣屋。宝暦十三年から安永七年までの一時期は駒野館に移っていました。維新まで十四代です。
三万石は小さな藩です。しかし御連枝という立場は、徳川一門のなかで血統として最高格に近いところにありました。ここが、次の話の前提になります。
高須四兄弟
十代藩主松平義建(よしたつ)は寛政十一年十二月十三日(1800年1月7日)生まれ。天保三年三月六日(1832年)に父の死去で襲封し、嘉永三年十月十六日(1850年)に隠居、文久二年八月二十日(1862年)に六十四歳で亡くなりました。在任は約十八年です。
この義建の子から、幕末を動かした四人が出ました。いずれも江戸の高須藩上屋敷、つまり四谷の荒木町で生まれています。
徳川慶勝(よしかつ、初名は慶恕)。文政七年三月十五日(1824年)生まれ。嘉永二年(1849年)に尾張藩主となり、安政五年(1858年)の安政の大獄で隠居謹慎を命じられ、家督を弟の茂徳に譲りました。慶応三年に新政府の議定職。慶応四年正月には藩内の佐幕派を粛清する青松葉事件を実行し、そのうえで東海道・中山道沿いの諸藩へ勤王を促しています。明治三年に名古屋藩知事。明治十六年(1883年)八月一日没。
徳川茂徳(もちなが、のち茂栄=もちはる)。天保二年五月二日(1831年)生まれ。嘉永三年に高須藩十一代を継ぎ、安政五年に兄の謹慎を受けて尾張名古屋藩十五代藩主となりました。慶応二年に一橋徳川家を継いで茂栄と改名し、徳川家の代表として新政府と交渉にあたっています。明治十七年(1884年)三月六日没、五十四歳。
松平容保(かたもり)。天保六年十二月二十九日(1835年)生まれ。弘化三年(1846年)に会津藩主松平容敬の養子となり、嘉永五年(1852年)に襲封しました。文久二年(1862年)に京都守護職。八月十八日の政変、禁門の変を経て、鳥羽伏見に敗れ、会津戦争を戦って降伏します。明治五年に許され、明治十三年(1880年)には日光東照宮の宮司となりました。明治二十六年(1893年)十二月五日没。
松平定敬(さだあき)。弘化三年十二月二日(1846年)生まれ。安政六年(1859年)十月一日に桑名藩松平家の家督相続を認められ、同月三日に江戸屋敷から桑名へ移りました。元治元年(1864年)四月十一日に京都所司代、慶応三年十二月九日に解任。以後、新政府軍と戦い続けて箱館まで転戦しています。
なお四人が義建の何男にあたるかは、資料によって食い違います。慶勝は次男(第二子)で一致していますが、茂徳は五男、容保は六男とするものと七男とするものがあり、定敬は七男とするものと八男とするものがあります。夭折した子を数えるかどうかの差と思われますが、ここは断定できません。
明治十一年(1878年)九月、東京の徳川慶勝邸で四人がそろって写真に収まりました。左から定敬、容保、茂徳、慶勝。京都守護職と京都所司代と尾張藩主と一橋徳川家が、同じ母屋で生まれた兄弟だったという事実が、この一枚に写っています。
残された藩主たち
では、高須藩そのものは誰が継いでいたのか。順に並べると十代義建、十一代義比(=のちの徳川茂徳)、十二代義端、十三代義勇、そして義生です。
十二代松平義端は安政五年(1858年)生まれ。父は徳川慶恕(慶勝)で、慶恕の隠居にともなって生後二か月で襲封しました。万延元年(1860年)五月十八日に三歳で亡くなっています。
十三代松平義勇(よしたけ)は義建の子ですから、前の藩主義端の叔父にあたりますが、義端より一歳下でした。万延元年、数え二歳で襲封しています。明治二年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、同年六月二十六日に松平義生を養子に迎え、七月二十七日、数え十一歳で隠居しました。明治二十四年(1891年)に満三十一歳で亡くなっています。
つまり慶応四年の高須藩主は満八歳か九歳の子どもでした。高須藩は「幕末に活躍した藩主を多く養子に出した藩」として知られますが、活躍したのは養子に出た兄たちであって、義勇自身の幕末の動向を示す記録は確認できていません。
松平義生は安政三年(1856年)生まれで、養子になった義勇より四歳年上です。明治二年七月二十七日に家督を継ぎ、明治三年(1870年)十二月二十四日、高須藩と尾張藩の合併により藩知事を免職されました。大正九年(1920年)没、六十四歳。
廃藩置県を迎えていない藩です
ここは間違えやすいところですので、はっきり書いておきます。高須藩は明治三年(1870年)に名古屋藩へ併合されて廃藩になりました。つまり明治四年七月の廃藩置県を迎えていません。「高須県」というものは存在しません。
慶応四年の高須藩がどう動いたかについては、尾張藩主が実兄の慶勝であり、その尾張藩が勤王誘引を主導したという文脈のなかで新政府側に立った、という以上のことは確かめられていません。青松葉事件との具体的な関わりも、戊辰戦争での出兵先も不明です。藩校は矜式館(文化頃)、明親館(文久頃)と伝わりますが、これも出典は弱いものです。
輪中の藩でした
もう一つ、この藩を語るうえで外せないのが水です。高須は木曽三川が集まる輪中地帯にあり、藩は水と向き合い続けました。
宝暦の治水工事の責任者は、薩摩藩家老の平田靱負です。宝暦五年の完成後に千本の苗を植えたと伝わり、これが千本松原になりました。海津市の治水神社は平田靱負を祭神とし、工事の犠牲となった薩摩藩士の位牌を祀っています。近代治水百年記念碑には「治水の恩人平田靱負」のレリーフがあります。明治に入るとヨハネス・デ・レーケが木曽三川の分流改修を指導し、明治二十一年には羽根谷砂防堰堤が施工されました。
薩摩の家老と藩士が命を落として守った土地から、会津と桑名の藩主が出て、薩摩を相手に戦うことになった。そう並べてみると、幕末という時代の入り組み方がよく分かります。
いま訪ねられる場所
高須陣屋の遺構は残っていません。海津市の指定史跡一覧にも高須陣屋跡は入っていません。ただし高須城の創生に関わった人物の墓碑として、宝暦十年(1760年)建立の徳永寿昌墓碑が市の史跡になっています。
陣屋の姿を見たいなら、海津市歴史民俗資料館(木曽三川輪中ミュージアム)です。令和七年(2025年)三月二十九日にリニューアルし、三階に高須藩松平家の御館(おたち)を復元しています。能舞台と五十畳の広間があり、能舞台は一般利用もできます。二階では輪中の成り立ちから治水工事の歴史までを展示し、屋外には堀田を復元して実際に稲を栽培しています。展示解説は高須藩を「尾張藩の支藩であり、会津の松平容保や桑名の松平定敬を輩出」した藩として紹介しています。所在地は海津市海津町萱野205番地一、入館は無料駐車場つきです。
松平家の菩提寺は行基寺(海津市南濃町上野河戸)。宝永二年(1705年)に松平氏の菩提寺として建立され、「高須藩主歴代墓」として九基の墓が岐阜県の史跡に指定されています。ただし墓所は現在非公開です。境内域には四世紀末頃の行基寺古墳もあり、こちらは海津市の指定史跡です。
四人の兄弟を送り出した家の墓が、輪中を見下ろす山の上に九基並んでいる。高須藩の幕末は、この静かな場所からはじまっていました。
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