【藩名】
揖斐藩
【説明】
戦国時代「西尾光教」は斎藤氏、織田氏、豊臣氏に仕えて曽根に2万石を領していました。「関ヶ原の戦い」で西軍の「大谷吉継」の制止を振り切って「徳川家康」に与したため、吉継によって曽根城は焼き払われました。その後、光教は岐阜城・大垣城攻撃などで戦功を挙げたため、1万石を加増されて曽根城から揖斐に移って3万石を領する大名となり、揖斐藩が成立しました。
元和元年(1615年)の「大坂夏の陣」においても徳川方に与して戦功を挙げたが、同年11月19日、駿府にて73歳で死去しました。光教には嗣子が無く、甥の「西尾嘉教」が後を継いで藩主となりました。このとき、嘉教は信長から拝領していた「唐絵茄子」の掛軸を家康に献上して、家督相続を認めてもらったとも言われています。なお、光教の養子である「西尾氏教」は大野・加茂両郡において5000石を分与されました。
しかし元和9年(1623年)4月2日、嘉教は嗣子なくして34歳で死去しました。ここに揖斐藩は無嗣断絶となり、廃藩となりました。
揖斐藩から、旗本岡田家の陣屋へ
揖斐藩は、関ヶ原の戦いの功で加増された西尾光教が大野郡揖斐荘に入って成立しました。二代の西尾嘉教は元和九年(1623年)四月二日に三十四歳で没し、跡継ぎがなかったため西尾家は改易となります。揖斐町がまとめた年表も、揖斐藩が取り潰されて天領となったのは元和九年としています。
天領となった揖斐には、寛永八年(1631年)に旗本の岡田善同が五千三百石で入り、揖斐陣屋が置かれました。西尾氏の政庁がそのまま岡田家の陣屋に引き継がれた形です。岡田家は美濃国奉行を務めた家で、揖斐陣屋の支配は幕末まで続きます。江戸時代の終わりごろの揖斐は、三輪村や大光寺村など六か村が揖斐陣屋領、上岡島村と下岡島村が尾張藩領という構成でした。
揖斐陣屋跡と揖斐城跡
揖斐陣屋の跡は岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪の北新町、三霊神社の付近一帯とされます。かつては石垣と土居、堀を備え、本丸と二の丸があり、本丸の北西の隅に火薬庫、南に米蔵、東に古書類を収める宝庫が置かれていました。本丸の東に二の丸、北の丸という地名がいまも残ります。
陣屋の背後にそびえるのが城台山で、その上に揖斐城の跡があります。康永二年(1343年)に土岐頼清の子の頼雄が築き、土岐一族の揖斐氏がおよそ二百年、六代にわたって拠った山城です。天文十六年(1547年)に斎藤道三に攻められて落城し、のちに山麓へ揖斐陣屋が築かれました。石垣や櫓を持たない土と木の城で、いまも枡形虎口や竪堀、堀切、古井戸が良好に残り、城台山公園として登山道と案内板が整えられています。
同じ城台山にある一心寺は、幕末に近い天保元年(1830年)、揖斐の領主である岡田家の家臣・芝山長兵衛が、伊吹山で念仏行を続けていた播隆のために一宇を建てたのが始まりです。当初は阿弥陀堂で、一心寺と改めたのは明治十二年でした。旗本の家臣が建てた堂という点で、揖斐の幕末を伝える場所といえます。
美濃の幕末——大垣藩の転向
揖斐から南東へ下った大垣藩は、美濃最大の十万石の譜代です。慶応四年(1868年)一月の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方として戦い、朝敵に指定されて藩主の入京も禁じられました。
ここで動いたのが家臣の小原鉄心です。新政府に召されていた鉄心は直ちに大垣へ帰り、先々代藩主の戸田氏正とともに藩主の戸田氏共や佐幕派を説得して、藩論を尊王でまとめ上げました。大垣藩はその後、東山道軍の先鋒を務めて処分を解かれ、明治二年に賞典禄三万石を受けています。美濃を通る東山道軍の道は、この転向によって開かれました。
東美濃の岩村藩も同じころ藩論が割れています。慶応三年十二月、乗政寺で開かれた藩臣会議でようやく勤王に定まり、翌年二月十九日に官軍の先導を命じられました。苗木藩の遠山友禄は文久元年と慶応元年の二度にわたり若年寄を務めた人ですが、大坂警備や長州征伐の出費で藩財政は破綻し、維新時の負債は十四万三千両あまりにのぼったと伝わります。
谷汲山華厳寺
揖斐川町には、西国三十三所の満願霊場である谷汲山華厳寺があります。ただし現在の本堂は明治十二年の再建で、幕末に旅人が拝んだ堂ではありません。宝暦年間に再建された仁王門だけが、幕末当時の姿をとどめています。
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