加賀野井藩

加賀野井藩 
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加賀野井藩の歩み

「加賀野井藩」という藩は、諸藩の一覧に見あたらません。ここにあったのは加賀野井城であり、その城主だった加賀井重望という武将の話です。美濃国羽栗郡加賀野井、現在の岐阜県羽島市にあたります。

関ヶ原の本戦より前に、東軍の武将を斬った男

加賀井重望(加賀野井秀望とも。名は諸説あり)は豊臣秀吉に登用され、加賀野井城主となりました。石高は一万石とする説と八千石とする説があります。

この人の名が歴史に残ったのは、慶長五年(1600年)の一件によります。関ヶ原の本戦を前にした七月、三河の池鯉鮒—現在の愛知県知立市で、重望は東軍の武将・水野忠重を斬りました。同席していた堀尾吉晴にも手傷を負わせ、そして自身も吉晴に討たれています。享年四十。

天下分け目の戦いが始まる前に、東軍の側で二人の武将が失われました。理由については諸説あり、確かなことは分かっていません。所領は没収され、加賀野井の城主家は消えました。重望の墓は、いま知立市の宝蔵寺にあります。

城地そのものが、川に持っていかれた

加賀野井城は木曽川のほとりにありました。天正十四年(1586年)の大洪水で城地の大半を失い、さらに慶長十三年(1608年)の御囲堤の築造によって、残りも川の流路整備に飲み込まれます。

いま城跡は田畑のなかで、石碑と案内板が立つのみです。岐阜県の指定史跡ではあるが、遺構らしい遺構は残っていません。木曽川という川が、城ひとつを地形ごと消してしまいました。

幕末の加賀野井は、誰の土地だったのか

幕末、この一帯の羽栗郡と中島郡は、天領(美濃郡代の支配地)、旗本領、尾張藩領、犬山藩領、そして磐城平藩領が入り組んだ相給地でした。

目を引くのは磐城平です。奥州の藩が、なぜ美濃に土地を持っているのか。江戸時代の大名の領地は必ずしも一円ではなく、幕府の都合で各地に飛び地が配られました。磐城平の安藤家もそうした飛び地を美濃に抱えていました。藩の境界というものが、地図の上でどれほど複雑だったかを示す例です。

斬られた水野忠重の家—福山、そして結城へ

加賀井重望に斬られた水野忠重は、徳川家康の母・於大の方の弟、つまり家康の叔父にあたる人物です。その子が、戦国きっての荒武者として知られる水野勝成でした。若いころに父と衝突して出奔し、各地を放浪したのち、関ヶ原の直前に父が殺されたことで家を継ぎます。勝成は大坂の陣でも活躍し、元和五年(1619)に備後福山十万石の藩主となって、福山城と城下町を築きました。

福山の水野家は元禄十一年(1698)に跡継ぎが絶えて領地を失いますが、家名の再興が許され、元禄十三年(1700)に下総の結城へ移って、ここで明治を迎えました。幕末の結城藩では、戊辰戦争のとき藩主の水野勝知が旧幕府側に心を寄せたのに対し、国元の家臣たちは新政府への恭順を主張して対立し、慶応四年(1868)には結城城をめぐって藩士どうしが戦う事態になっています。池鯉鮒で斬られた忠重の子孫は、二百七十年後、自分の家中で敵味方に分かれることになりました。

加賀野井の飛び地と安藤信正

幕末の加賀野井周辺に磐城平藩の飛び地があったことは先に書きましたが、その磐城平藩の藩主こそ、幕末の老中・安藤信正です。信正は桜田門外の変のあとの幕府を支え、和宮の降嫁を進めて公武合体を図りましたが、文久二年(1862)一月、江戸城坂下門外で水戸浪士らに襲われて負傷し、やがて失脚しました。美濃の木曽川沿いの村の年貢は、そうした幕府中枢の大名の家計を支えていたことになります。

同じころの日本—関ヶ原の本戦

九月十五日 加賀野井城の攻防から一か月あまりのち、慶長五年(1600)九月十五日、美濃の関ヶ原で東軍と西軍の本戦が行われました。朝から続いた戦いは、昼ごろ、松尾山に陣取っていた小早川秀秋が東軍に寝返ったことで一気に決着し、西軍は総崩れとなります。

戦いのあと 西軍の中心だった石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は捕らえられて京都で処刑され、西軍についた多くの大名が領地を失いました。加賀野井城のような美濃の小さな城の攻防は、この天下分け目の戦いへと続く前哨戦の一つでした。

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