臼井藩/酒井家3万石:酒井家次 上野国高崎藩に加増移封のため廃藩

目次

臼井藩の歩み

戦国時代、臼井の地は千葉氏の家臣「原氏」が治めていました。豊臣秀吉の「小田原征伐」で原氏が滅亡した後、徳川家康が関東に入封し、三河国吉田城主「酒井家次」が三万石で臼井に入り、臼井藩を立藩しました。家次は徳川四天王の筆頭「酒井忠次」の嫡子です。

臼井藩/場所・アクセス・地図 酒井家3万石:酒井家次 上野国高崎藩に加増移封のため廃藩【幕末維新写真館】臼井藩/場所・アクセス・地図 酒井家3万石:酒井家次 上野国高崎藩に加増移封のため廃藩【幕末維新写真館】

慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で家次は徳川秀忠軍に属して上田城の「真田昌幸」攻めに参加しました。

臼井藩/場所・アクセス・地図 酒井家3万石:酒井家次 上野国高崎藩に加増移封のため廃藩【幕末維新写真館】

家次は慶長九年(1604年)十二月、上野国高崎藩に加増移封となり、臼井藩は廃藩の上でその所領は天領となり、その後は旗本領に分けられました。元禄十四年(1701年)からは佐倉藩領として組み込まれています。

臼井藩/場所・アクセス・地図 酒井家3万石:酒井家次 上野国高崎藩に加増移封のため廃藩【幕末維新写真館】

臼井藩をもっと深く—印旛沼のほとりで、幕府が海防のために掘った運河

臼井藩は慶長九年(1604年)に廃藩となり、以後この地に大名は置かれませんでした。幕末の臼井に城はなく、藩もありません。

それでもこの土地を幕末の側から見る意味はあります。臼井は印旛沼のほとりにあり、そのすぐ先で、天保の改革でもっとも大規模な土木工事が行われたからです。しかもそれは、外国船から江戸を守るための工事でした。

幕末の臼井は、佐倉藩領

酒井家次が上野高崎へ移ったあと、臼井の地は幕府領や旗本領を経て、元禄14年(1701年)から佐倉藩領となり、そのまま幕末を迎えました。

幕末の佐倉藩主は堀田正睦です。老中首座として日米修好通商条約の交渉をまとめながら、朝廷の勅許を得られずに退いた人物です。あの佐倉城の城下から東へ、成田街道(佐倉道)をたどった先が臼井にあたります。江戸と佐倉、そして成田山を結ぶ道の途中の宿場町でした。

天保十四年、印旛沼を掘る

天保十四年(1843年)、老中・水野忠邦は印旛沼の掘割普請を命じました。天保の改革の総仕上げにあたる大工事です。

目的がはっきりしています。北関東あるいは銚子から、利根川と印旛沼を経て検見川へ抜け、江戸へ物資を運び込む水運を開くこと。外国船からの江戸防衛を念頭に置いた計画でした。

ペリー来航の十年前です。異国船打払令の時代に、幕府はすでに「江戸湾を通らない輸送路」を必要としていました。海から江戸を封じられたときに備える、という発想がこの工事にはあります。天保の改革といえば倹約令と株仲間解散ばかりが語られるが、その裏側でこれだけの規模の海防事業が動いていました。

五つの藩が、同じ穴を掘らされた

幕府はこの工事を御手伝普請として五つの藩に命じました。動員はのべ六万人、費用は二十三万両にのぼったとされます。

普請を命じられた藩 その二十五年後
鳥取藩 藩主・池田慶徳は徳川斉昭の五男。十五代将軍慶喜の兄にあたる
庄内藩 江戸薩摩藩邸を焼き討ちし、戊辰戦争で一度も自領を踏ませなかった
沼津藩 徳川宗家の駿府移封にともない、房総の菊間へ移された
請西藩(当時は貝淵藩) 藩主・林忠崇が自ら脱藩して戦い、大名家として最後の改易を受けた
秋月藩 福岡藩の支藩として、宗家とともに動いた

天保十四年に同じ穴を掘らされた五藩が、二十五年後にはまるで違う立場で戊辰戦争を迎えています。御手伝普請の名簿というのは、そのとき幕府がどの藩を「使える」と見ていたかの一覧でもあります。命じられた側にとっては、ただの重い出費でした。

工事は、水野の失脚とともに止まった

ところが同じ天保十四年の閏九月、水野忠邦が失脚します。工事は宙に浮き、正式に中止が決まったのは翌年六月でした。掘りかけの溝だけが残りました。

印旛沼の掘割は江戸時代を通じて三度試みられ、三度とも挫折しています。天保のこれが三度目でした。海防のための運河は、ついにできませんでした。

そして十年後、ペリーの艦隊は江戸湾へそのまま入ってきます。臼井の村人が見ていたのは、間に合わなかった備えの跡だったことになります。

城のない土地に、幕末はあった

臼井城そのものは戦国期に役目を終えています。城跡には土塁と空堀が残るだけで、幕末に軍事的な意味はありませんでした。

それでも、目の前の水面では幕府が海防のために沼を掘り、街道では佐倉藩の御用が行き来していました。城がなくなっても、その土地が歴史から外れるわけではない—臼井はそのことをよく示しています。

臼井藩をもっと詳しく

藩の成り立ち:家康の関東入国と臼井

天正十八年(1590年)、小田原征伐で北条氏とその配下の原氏が滅びると、関東に移った徳川家康は、家臣たちを江戸のまわりに配置しました。このとき三河吉田城主だった酒井家次に与えられたのが下総国印旛郡の臼井で、居城は臼井城(いまの千葉県佐倉市臼井)でした。石高は三万石とされますが、三万七千石とする記述もあります。

先祖の戦国武将:酒井忠次と、母・碓井姫

家次の父は、徳川四天王の筆頭に数えられる酒井忠次です。母は家康の叔母にあたる碓井姫で、家次は家康のいとこにあたります。家次は天正十六年(1588年)、父の隠居によって家督を継ぎました。

四天王筆頭の跡取りにしては、臼井の石高は小さいものでした。これについては、忠次が家康に家次の待遇を訴えたところ、家康が「お前も我が子がかわいいか」と答えたという話が伝わります。家康の長男・信康が切腹に追い込まれた一件で、忠次が信長への弁明をしなかったことを家康が忘れていなかった、という筋立てですが、後世の逸話として語られているもので、確かな史料で裏づけられた話ではありません。

藩の終わりと、酒井家のその後

慶長九年(1604年)、家次は上野国高崎五万石へ加増のうえ移され、臼井藩はなくなりました。家次はさらに元和二年(1616年)に越後高田十万石へ移り、元和四年(1618年)に亡くなっています。家督を継いだ長男の酒井忠勝はのちに出羽庄内藩の藩主となり、この家は庄内藩酒井家として幕末まで続きました。臼井藩は、のちに戊辰戦争で東北の雄藩となる庄内酒井家の、関東での最初の領地だったことになります。

家次が去ったあとの臼井村などは、まず幕府領となり、その後は旗本たちの領地として分けられました。元禄十四年(1701年)からは佐倉藩の領地に組み込まれています。

臼井城のようす

臼井城は、十二世紀の中ごろに千葉氏の一族・臼井常康が築いたと伝わる城です。永禄九年(1566年)には上杉謙信と里見義弘の大軍に攻められましたが、城を守る原氏の側は軍師・白井浄三の知恵と北条氏の援軍によって謙信を退けたとされ、戦国時代の関東で名高い籠城戦の一つになっています。酒井家次の入城後、文禄二年(1593年)に城内から出た火で焼け、家次が高崎へ移った慶長九年に廃城となりました。いまは佐倉市の史跡「臼井城址公園」として整備されています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、三万石のこの藩はおよそ七百十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。なお臼井藩があったのは慶長九年までで、この規定よりも前の時代です。

参考:Wikipedia「臼井藩」「臼井城」「酒井家次」など

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