岩富藩/北条家1万石:北条氏重 下野富田藩に移封のため廃藩

岩富藩 北条家1万石 最後の藩主 北条氏重
目次

岩富藩の歩み

北条氏勝は天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による「小田原征伐」の際に「玉縄城」で善戦したが、本多忠勝や榊原康政の説得を受けて徳川家康に降伏し、やがて家康の家臣となりました。この氏勝が小田原征伐後、原氏に替わって下総国岩富一万石を与えられ「岩富藩」が立藩されました。

氏勝は慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で尾張国犬山城を守備する功を挙げました。慶長十六年(1611年)三月に氏勝は死去し、後を養嗣子(保科正直の四男)の「北条氏重」が継ぎました。氏重は慶長十八年(1613年)、下野富田藩に移封となったため「岩富藩」は廃藩となりました。

廃藩のあと—北条の城が消えた土地に、蘭方医学の総本山ができた

岩富は下総国、いまの千葉県佐倉市岩富町です。この藩を立てたのは北条氏勝—後北条一族の一人でした。天正十八年(1590年)の家康の関東入国にあたって岩富一万石を与えられ、譜代の列に加えられます。小田原北条の生き残りが、徳川の譜代大名になった土地です。慶長十八年(1613年)に氏重が下野富田藩へ移って廃藩となりました。

その後の岩富は佐倉藩(堀田家十一万石)領となり、幕末を迎えます。

そしてこの佐倉藩が、幕末の日本で特別な位置を占めました。天保十四年(1843年)、佐藤泰然が佐倉に移って順天堂を開きます。蘭方医学の拠点となった塾です。

泰然の次男松本良順は長崎でポンペに学び、文久元年(1861年)に長崎養生所を開いて頭取となりました。戊辰戦争では幕府軍の軍医を務め、のちに陸軍軍医総監になっています。

藩主の堀田正睦は藩政改革と開国に尽力した人物として知られます。ただし条約交渉の年次を佐倉市の公式資料で裏付けることはできませんでした。幕末の藩主・堀田正倫は、慶応四年の戊辰戦争にあたり、新政府に敵意のないことを釈明するため上洛を試みています。

北条の城が消えて二百三十年後、同じ佐倉領で蘭方外科の総本山が開かれたことになります。

岩富城跡には空堀と土塁が明瞭に残ります。五角形の主郭に浅間神社が建ち、周囲を土塁がめぐり、東と南に空堀があります。ただし佐倉市の文化財のページには岩富の記述がなく、公式の裏付けは取れていません。佐倉市街には旧佐倉順天堂記念館があります。

「地黄八幡」北条綱成の孫

岩富藩の北条氏勝は、小田原北条氏の一門の中でも武勇で知られた玉縄北条家の当主です。祖父の北条綱成は、黄色の旗に「八幡」と書いた旗印を掲げて戦ったことから「地黄八幡(じきはちまん)」と呼ばれ、北条氏康のもとで数々の合戦に勝った名将でした。玉縄城(いまの神奈川県鎌倉市)は、この一族が代々守った城です。

天正十八年(1590)の小田原攻めのとき、氏勝ははじめ伊豆の山中城の守りに加わりましたが、豊臣の大軍の前に城は半日で落ち、氏勝は玉縄城へ退きました。そこで籠城したのち、家康の家臣・本多忠勝らの説得を受けて城を開いています。北条氏の城の多くが抵抗のすえに落ちるなかで、家康との交渉で降ったことが、のちに徳川の譜代大名として迎えられる道を開きました。

岩富城と原氏

氏勝が入る前の岩富城は、下総の千葉氏の重臣・原氏の一族が拠った城でした。原氏は臼井城や小弓城を本拠に下総で勢力を振るい、北条氏に従っていましたが、小田原攻めで北条氏とともに没落します。北条の一門が、北条に従っていた下総の国人の城を引き継いだことになります。

氏勝の養子・氏重はのちに遠江の久野藩などへ移りましたが、万治元年(1658)に跡継ぎのないまま亡くなり、玉縄北条家はここで絶えました。地黄八幡の血を引く大名家は、江戸時代の前半で姿を消したのです。

岩富藩をもっと詳しく

「弥富」と呼ばれた城

岩富は、もとは「弥富」と呼ばれた土地です。千葉氏の家老・原氏は生実城(小弓城)を本拠としていましたが、安房の里見氏に押されて臼井城に移り、その後も生実城は里見氏と戦う最前線の拠点でした。生実と臼井のほぼ中間にある岩富(弥富)は、その中継地として大切な場所で、原氏の一族・弥富原氏が城を構えていました。

玉縄城の籠城と降伏のいきさつ

天正十八年(1590年)三月二十九日に山中城が落ちたあと、氏勝は玉縄城に退いて引きこもりました。この行動は小田原城に籠もる北条氏政らに疑われたとされ、怒った氏勝は玉縄城で籠城して戦う構えを見せます。家康は本多忠勝・榊原康政・井伊直政らを送って説得し、氏勝は四月二十八日に降伏しました。その後は家康の配下として、浅野長政・木村重茲・本多忠勝の軍勢を案内し、なお抵抗を続ける関東の城々の平定に協力しています。

岩富での治世

岩富には天正十九年(1591年)の検地帳が残っていて、房総で太閤検地がもっとも早く行われたことを示す史料とされています。氏勝はいったん実子の北条氏明に家督を譲ったとみられますが、慶長元年(1596年)ごろに氏明が亡くなり、ふたたび当主に戻ったようです。

関ヶ原の戦いのときには、田中吉政から三河岡崎城を受け取って守り、続いて尾張犬山城の守備にあたりました。その後二年ほどは丹波亀山城の城番もつとめています。ただし関ヶ原のころから体をこわしていたともいわれ、実弟の北条繁広が代わりをつとめたとする話もあります。氏勝は慶長十四年(1609年)、鎌倉の鶴岡八幡宮の神鏡をまねて鋳た鏡を祀ったと伝わり、これが岩富町字本宿の八幡神社の始まりとされます。また直弥村(いまの佐倉市直弥)の宝金剛寺を再建して葬られたと伝わり、氏勝が寄進した袈裟や椀は「岩富城主北条氏勝寄進資料」として佐倉市の有形文化財になっています。

二代・氏重と玉縄北条家の終わり

跡を継いだ北条氏重は、保科正直の四男で、母は徳川家康の異父妹・多劫姫です。つまり氏重は家康の甥にあたり、のちの名奉行・大岡忠相の母方の祖父にもあたります。岩富のあと、氏重は下野富田、遠江久野、下総関宿、駿河田中と移り、慶安元年(1648年)に遠江掛川三万石の藩主となりました。しかし五人の子はすべて女子で、万治元年(1658年)に跡継ぎのないまま亡くなり、家は取りつぶされています。綱成の血すじの北条家は、氏勝の実弟・繁広の家が旗本として続きました。

岩富の町と、その後

岩富には、近世の「岩富村」と「岩富町」があり、中世以来の城下町が村から分かれて岩富町となったとされます。岩富町は江戸時代に在郷町としてにぎわいました。明治の町村制のときに周りの村と合わさって「弥富村」となり、昭和二十九年(1954年)に佐倉市に編入されています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。岩富藩は慶安二年より前に消えた藩なので、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。

参考:Wikipedia「岩富藩」「北条氏重」

場所・アクセス・地図

  • URLをコピーしました!
目次