下総飯田藩の歩み
徳川氏譜代の家臣である「青山成重」は慶長八年(1603年)十二月二十五日、下総国内において五千石を加増され一万石の大名となりました。そして下総飯田藩を立藩しました。
しかし成重は「大久保長安」の三男を養子として迎えていたことから、長安没後の「大久保長安事件」の連座として七千石没収の上、下総国香取郡に閉居となります。このため、青山成重は三千石の旗本となり下総飯田藩は廃藩となりました。
廃藩のあと—幕末の下飯田
青山成重は大久保長安事件に連座し、慶長十八年(1613年)に加増分七千石を没収されて大名の列を離れました。ただし家が絶えたわけではありません。元和元年(1615年)に成重が没したあと、実子の成次が旧領のうち千石を改めて与えられ、下飯田村は旗本・青山家の所領として幕末まで続きます。大名から旗本へ落ちたまま、二百五十年あまりを過ごしたことになります。
場所は下総国香取郡下飯田村、いまの千葉県香取市下飯田です。陣屋の跡は特定されておらず、西音寺のあたりと推定されているにとどまります。戊辰戦争の主戦場からも外れており、幕末にこの地で何が起きたかを伝える記録を、私は見つけることができませんでした。
一万石の大名が置かれた土地でも、痕跡もろとも消えてしまうことがあります。飯田藩はその例です。
青山家を継いだのは、青山の血ではありませんでした
服部家に生まれ、家康の命で青山を名のりました
下総飯田藩を開いた青山成重は、元亀二年(1571年)に服部正信の次男として生まれています。青山の血筋ではありません。母の従兄にあたる青山忠重が戦死して跡継ぎがなかったため、徳川家康の命で青山家を継いだのです。成重はのちに徳川秀忠の後見役を務め、秀忠の軍に従いました。将軍家の世継ぎのそばに置かれた人物が、下総の一万石を与えられた。そういう経緯の藩です。
立藩の年は、資料が割れています
成重が下総国内で五千石を加えられて一万石に達し、大名の列に入った年については記述が食い違います。慶長八年(1603年)十二月二十五日とするものと、老中就任と同時の慶長十三年(1608年)十二月二十五日とするものがあり、日付だけが一致しています。関東移封に従って香取郡内に三千石を得たのが天正十八年(1590年)、慶長六年(1601年)に二千石、そして五千石加増で一万石、という積み上げの説明もあります。いずれも確かな出典を確認できていません。陣屋の場所も、香取市下飯田字根舞のあたりとされるものの正確な位置は分からず、西音寺付近と推定されるにとどまります。
養子が、家をつぶしました
成重が大名でいられたのは五年ほどでした。慶長十八年(1613年)、大久保長安事件に連座します。理由は、長安の三男を養子に迎えていたことでした。同年八月に加増分七千石を没収され、下総国香取郡の知行地で屏居、つまり蟄居を命じられます。大坂の陣が終わっても赦されないまま、元和元年(1615年)に飯田の地で没したと伝えられます。家康が継がせた家を、家康の裁きが取り上げた形です。
旗本として、二百五十年
ただし家は絶えませんでした。嫡男の成次に千石が改めて与えられ、以後、青山家は旗本としてこの地とのつながりを保ちます。大名から旗本へ落ちたまま幕末までを過ごした家です。五年間しかなかった藩なので、藩校はなく、家臣の名も記録に残っていません。遺構も文化財指定もありません。残っているのは、下飯田という地名と、陣屋があったらしいという言い伝えだけです。
大久保長安事件とは
下総飯田藩が消えるきっかけとなった大久保長安は、もとは甲斐武田家に仕えた猿楽師の家の出で、武田家が滅んだあと徳川家康に取り立てられた人です。鉱山の開発と経営に優れ、石見銀山・佐渡金山・伊豆の金山などの奉行を兼ね、関東の代官頭として幕府の財政を支えました。
ところが慶長十八年(1613)四月に長安が亡くなると、生前に不正な蓄財をしていたとして遺産が没収され、七人の男子はすべて処刑されました。長安と縁を結んでいた大名や旗本にも処分が広がり、長安の三男を養子にしていた青山成重もその一人として大名の地位を失います。
小田原の大久保家への波及
長安は大久保の姓を名のっていましたが、これは小田原城主・大久保忠隣の庇護を受け、その姓を与えられたものでした。翌慶長十九年(1614)、忠隣も改易されます。直接の理由は別とされるものの、長安事件と結びつけて語られることの多い出来事です。大久保家はその後、忠隣の孫の代に大名に戻り、貞享三年(1686)に小田原へ返り咲いて、幕末まで小田原藩主を務めました。長安事件で潰えた下総飯田の青山家と、百年近くかけて元の城に戻った大久保家とで、その後の道は大きく分かれました。
老中まで務めた成重と、大久保長安事件
三河譜代の青山家
青山成重の通称は七右衛門・図書助で、三河譜代の青山家の一族、家格は譜代です。天正18年(1590)に下総香取郡で3千石、慶長6年(1601)に2千石を加えられて5千石となり、関ヶ原の年には秀忠の軍に加わって上田城を攻めたとされます。慶長13年(1608)には年寄(老中)となりました。
長安の子を養子にしたことが命取りに
成重は大久保長安の子・成国を養子に迎えていました。長安の死後に不正が発覚した大久保長安事件に連座して、成重は失脚します。大坂の陣では本多正信に同行を願い出て手柄を立て、挽回を図りましたが、赦されなかったといわれます。
旗本としての家
陣屋は寛永年間に取り壊されたとされます。子の成政は御先鉄炮頭となって1千2百石に増え、子孫の成存は勘定奉行を務めました。青山家の領地だった下飯田村は852石だったといいます。
考察:養子縁組が政争の火種になった
有力者と縁組することは出世の近道でしたが、その相手が失脚すれば一緒に沈む。成重の運命は、江戸初期の幕閣で縁組がどれほど危うい賭けだったかを物語っています。



