明治2年(1869)4月。蝦夷地の南の海べりを、新政府軍が箱館へ向けて押し寄せていました。二股口の山の中では土方歳三が敵を食い止めていましたが、もう一つの道、海ぞいの道の守りは苦しい戦いが続きます。
4月20日の木古内(きこない)、そして4月29日の矢不来(やふらい)。海から軍艦の砲弾が降りそそぐなかで、旧幕府軍は160人もの戦死者を出して崩れ、五稜郭へ追いつめられていきました。この記事では、箱館戦争の流れを決めた「木古内・矢不来の戦い」を、進軍図とイラスト、古写真で解説します。

木古内・矢不来の戦いとは?ひとことで言うと
蝦夷地に上陸した新政府軍が、海ぞいの道を箱館へ進み、木古内で旧幕府軍とはげしく戦ったのち、矢不来の陣地を陸と海から攻めて打ち破った戦いです。この敗北で旧幕府軍の海ぞいの守りは崩れ、二股口を守っていた土方歳三も退くことになりました。
| 日時 | 木古内の戦い:明治2年4月20日(1869年5月31日) 矢不来の戦い:明治2年4月29日(1869年6月9日) |
|---|---|
| 場所 | 蝦夷地の木古内・泉沢・矢不来(現在の北海道上磯郡木古内町・北斗市) |
| 新政府軍 | 陸軍参謀・黒田清隆、海陸軍参謀・山田顕義のもとに集まった諸藩の兵。矢不来では陸軍参謀・太田黒惟信が約1,600人を率いた。軍艦・甲鉄や春日が海から砲撃 |
| 旧幕府軍 | 陸軍奉行・大鳥圭介。額兵隊・伝習隊・遊撃隊・彰義隊・衝鋒隊など。木古内には約500人 |
| 損害 | 木古内で旧幕府軍の死傷70人あまり。矢不来では旧幕府軍の戦死160人とされる |
| 結果 | 新政府軍の勝利。旧幕府軍は箱館・五稜郭へ退いた |
なぜ木古内で戦いが起きたのか
新政府軍、蝦夷地に上陸
前の年の冬、旧幕府軍は五稜郭と松前を手に入れ、蝦夷地に独自の政権をつくりました(峠下・七重村の戦い、松前城・館城の戦い)。雪がとけると、新政府軍の反撃がはじまります。
明治2年4月9日の早朝、海陸軍参謀・山田顕義の率いる新政府軍1,500人が、蝦夷地の日本海側の乙部(おとべ)に上陸しました。軍艦の砲撃で江差を取り返し、12日には黒田清隆の率いる2,800人も江差に上陸します。

箱館へ向かう四つの道
新政府軍は、江差から箱館へ四つの道に分かれて進みました。海ぞいに松前へ向かう「松前口」、山を越えて木古内へ出る「木古内口」、山の中を大野へ抜ける「二股口」、内浦湾ぞいの「安野呂口」です。二股口では土方歳三が台場山に胸壁を築いて新政府軍を食い止めていました(二股口の戦い)。
いっぽう、木古内は松前と箱館を結ぶ海ぞいの道の要です。4月17日に松前城が落ちると、松前を守っていた部隊も知内や木古内へ退いてきました。木古内を抜かれれば、新政府軍は海ぞいに箱館の目の前まで進めます。
両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府軍
| 部隊 | 指揮官 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 陸軍全体 | 大鳥圭介 | 陸軍奉行。4月12日に木古内へ駆けつけ、守りを固めた |
| 額兵隊 | 星恂太郎 | 仙台藩を脱藩した洋式部隊。木古内で最後まで踏みとどまった |
| 伝習隊 | 本多幸七郎 | フランス式の歩兵。援軍として木古内の奪回に加わった |
| 遊撃隊・彰義隊 | ― | 木古内の守りについた。彰義隊の一部は知内で孤立した |
| 衝鋒隊 | 天野新太郎 | 矢不来の守りについたが、大隊長の天野が艦砲射撃で戦死した |
新政府軍
| 部隊 | 指揮官 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 陸軍 | 黒田清隆 山田顕義 太田黒惟信 |
長州藩・薩摩藩をはじめ、弘前藩・松前藩・福山藩など諸藩の兵が加わった。矢不来では約1,600人で三方から攻めた |
| 海軍 | ― | 装甲艦・甲鉄、春日などが海から矢不来の陣地を砲撃した |
両軍の条件を比べる
| 旧幕府軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 木古内に約500人。蝦夷地全体でも数は限られ、増えることはなかった | 本州から次々と兵が送られ、矢不来だけで約1,600人 |
| 海 | 開陽丸を失い、海を守る力はほとんど残っていなかった | 甲鉄などの軍艦で、海ぞいの陣地を海から撃てた |
| 地の利 | 矢不来は山と海にはさまれた守りやすい場所で、砲台と胸壁を築いた | 本道・海岸・山の上の三方から攻めた |
| 兵の質 | 額兵隊や伝習隊など洋式の部隊は手ごわかった | 補給を整え、休んだ兵を次々と入れ替えられた |
戦いの流れ

4月20日:木古内の戦い
4月12日、陸軍奉行の大鳥圭介は伝習隊や額兵隊を連れて木古内に入り、もとからいた彰義隊などとあわせて約500人で陣を敷きました。数日のあいだ、新政府軍の斥候との小競り合いが続きます。
4月20日の夜明け前、山を越えてきた新政府軍が総攻撃をかけました。はげしい戦いは昼ごろまで続き、額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏みとどまりますが、旧幕府軍は70人あまりの死傷者を出して東の泉沢まで退きます。額兵隊を率いた星恂太郎は、退却のときに自決しようとして、隊士に止められたと伝えられます。

木古内を取り返し、そして捨てる
泉沢で本多幸七郎の伝習隊などの援軍を加えた旧幕府軍は、知内に取り残された彰義隊など300人を救うため、ふたたび木古内へ向かいます。知内の部隊も木古内へ突入し、はさみ撃ちを恐れた新政府軍は退きました。旧幕府軍は木古内を取り返します。
しかし、大鳥は木古内にとどまりませんでした。数で勝る新政府軍がまた来れば、守りきれないと見たのです。旧幕府軍は木古内を捨て、箱館寄りの矢不来まで下がって、砲台と胸壁を築きました。山が海にせまる矢不来は、海ぞいの道を守るのにうってつけの場所でした。

4月29日:矢不来の戦い
木古内で松前からの軍とも合流し、補給を整えた新政府軍は、4月29日、矢不来に攻めかかりました。陸軍参謀・太田黒惟信が約1,600人を率い、本道・海岸・山の上の三方から攻めます。同時に、沖からは甲鉄や春日などの軍艦が、陣地に砲弾を撃ちこみました。

海からの砲撃は、陸の胸壁では防ぎきれません。衝鋒隊の大隊長・天野新太郎や永井蠖伸斎(かくしんさい)らが次々とたおれ、旧幕府軍は総崩れとなりました。大鳥は富川で部隊を立て直そうとしましたが果たせず、有川まで退きます。有川では総裁の榎本武揚がみずから指揮をとりましたが、旧幕府軍はもう持ちこたえられず、箱館へ向けて敗走しました。この日の戦いで、旧幕府軍は160人の戦死者を出したとされます。

戦いのあと
二股口の土方も退く
矢不来が破られたことで、二股口で新政府軍を食い止めていた土方歳三は、うしろの道を断たれるおそれが出てきました。一度も負けなかった台場山の陣を捨て、土方は五稜郭へ引き上げます。旧幕府軍は、箱館と五稜郭のまわりだけを守る形に追いこまれました。
箱館総攻撃へ
5月11日、新政府軍は陸と海から箱館への総攻撃をかけます。土方歳三はこの日、一本木関門の近くで戦死しました。海では旧幕府艦隊が最後の戦いをくり広げます(箱館湾海戦)。5月18日、榎本武揚らは五稜郭を開いて降伏し、戊辰戦争はここに終わりました(箱館戦争)。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
箱館戦争というと、二股口で一度も負けなかった土方歳三の話がよく知られています。でも、木古内と矢不来の戦いを見ると、山の中でどれだけ勝っても、海ぞいの道が破られれば意味がなくなってしまうことがわかります。土方の不敗の陣は、矢不来の敗北によって終わったのです。
そして、その矢不来を崩したのは、海からの砲撃でした。旧幕府軍は前の年の冬、最強の軍艦・開陽丸を江差の嵐で失っています。もし開陽丸が残っていたら、甲鉄が矢不来の沖に近づくこともむずかしかったかもしれません。海を失った海軍の軍団が、海からの砲撃で崩れていく。箱館戦争の皮肉を、いちばんよく表している戦いだと思います。
木古内で自決しようとして止められた星恂太郎は、戦争のあと北海道に残り、岩内で塩づくりの仕事をはじめました。37歳で亡くなっています。敗れた人たちの多くが、そのまま北の地で生きていったことも、心に留めておきたいと思います。
現地を歩く ― 木古内・矢不来の史跡
- 矢不来台場跡(北斗市矢不来):旧幕府軍が砲台と胸壁を築いた場所。海を見下ろす高台に跡が残る
- 木古内の古戦場(木古内町):大鳥圭介らが陣を敷いた海ぞいの町
- 乙部の上陸地(乙部町):新政府軍が上陸した日本海側の浜
- 五稜郭(函館市):矢不来の敗北のあと、旧幕府軍が最後に立てこもった城
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- 箱館戦争とは?五稜郭に立てこもった旧幕府軍の最後の戦い
- 二股口の戦いとは?土方歳三の不敗の陣
- 峠下・七重村の戦いとは?箱館戦争のはじまり
- 松前城・館城の戦いとは?
- 箱館湾海戦とは?
- 大鳥圭介
参考にした資料
- Wikipedia「箱館戦争」「星恂太郎」「額兵隊」
- 函館市史 通説編2(函館市地域史料アーカイブ)
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。肖像写真・古写真はパブリックドメイン(Wikimedia Commons)


