小久保藩/田沼家1万1270石:田沼意尊 徳川宗家の駿河・遠江移封に伴う替地として立藩

小久保藩 田沼家1万1270石 最後の藩主 田沼意尊
目次

小久保藩の歩み

明治元年(1868年)九月、遠州相良藩主「田沼意尊」が徳川宗家の駿河・遠江移封による替地として上総国天羽郡小久保を与えられたことで立藩されました。意尊は、第10代将軍「徳川家治」のもとで老中を務めた「田沼意次」の曾孫です。翌年六月「版籍奉還」により意尊は小久保藩知事となります。

意尊は洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力したが、同年十二月に病死しました。養嗣子の「田沼意斉」が家督を相続し、同様に藩校創設に尽力しています。明治四年(1871年)の廃藩置県により小久保藩は廃藩となりました。

天狗党を斬った男に、最後に与えられた一万石

田沼意次の曽孫でした

小久保藩を開いた田沼意尊は、田沼意次の曽孫にあたります。意次の失脚で田沼家は相良を追われて陸奥下村へ移されましたが、意次の四男意正が文政六年(1823年)に相良への帰封を実現し、家中から中興の主と仰がれました。意尊はその流れを受けて天保十一年(1840年)に相良藩主となった人です。田沼氏そのものは下野国安蘇郡の佐野氏の分家を称しますが、この出自については研究者のあいだで議論があります。

敦賀の鰊蔵で三百五十二人を処刑した若年寄

意尊は文久元年(1861年)九月十四日、四十三歳で若年寄になります。そして元治元年(1864年)七月八日、天狗党追討軍の総括に任じられました。幕府軍の本隊を率いて進み、天狗党の進路にあたる諸藩へ追討令を発します。加賀藩に投降した一党の身柄を引き取ると、敦賀の鰊蔵に押し込め、慶応元年(1865年)三月一日から武田耕雲斎ら幹部二十四名を斬首、三月二十日までに捕虜八百二十八名のうち三百五十二名を処刑しました。幕末の処刑としては最大級の規模です。意尊は慶応二年(1866年)十月四日に若年寄を解かれました。

朝敵になったからではなく、静岡藩に押し出されて

田沼家が遠江相良から上総へ移されたのは慶応四年(1868年)九月です。理由は処罰ではありません。徳川宗家が駿府七十万石へ移ることになり、その替地として相良が召し上げられたのです。新しい領地は上総国周准郡と天羽郡で一万石余。相良時代の一万三千二百四十三石に比べると目減りしており、あわせて三年間の現米と金三千両が支給されました。天狗党を斬った幕臣が、その幕府の消滅によって房総の小藩主になった。小久保藩とはそういう成り立ちの藩です。

士族にも平民にも開かれた藩校

意尊が創立した藩校は盈進館といいます。開校は明治三年(1870年)十月。士族の子弟には就学を義務づけ、あわせて平民の子弟の入学も許しました。同年十一月には洋学が加えられ、間宮濤之助という教師が英語・算術・地理・歴史を教えたと伝えられます。藩が消える前年に、身分を越えた学校が房総の村に立ち上がっていたことになります。陣屋は明治二年(1869年)に着工しましたが完成前に廃藩となり、建物はそのまま小久保県の県庁と県知事の邸に使われました。

養子は、勝浦を継いだ大岡家から来ました

意尊は明治二年(1869年)六月二十四日に知藩事となり、七月に入領しましたが、同年十二月二十二日に家督を譲って二日後に世を去ります。跡を継いだ田沼意斉は、武蔵岩槻藩主大岡忠恕の五男でした。岩槻の大岡家といえば、勝浦藩の改易後にその領地を与えられ、房総に飛地を持っていた家です。房総の二つの小藩が、思わぬところで同じ家につながっています。

爵位を返して終わった家

明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で小久保県となり、同年十一月十三日に木更津県へ統合されました。意斉は明治六年(1873年)十一月に家督を意尊の長女智恵へ譲って隠居し、田沼家を離れます。智恵の入婿となったのは少納言伏原宣諭の次男望で、明治十三年(1880年)十二月十一日に家督を継ぎ、明治十七年(1884年)七月八日に子爵を授けられました。ところがその子の正の代、大正九年(1920年)六月十五日に爵位が返上され、田沼家は華族の列から自ら降りています。老中を出した家の、これが最後の身の処し方でした。

陣屋跡のいま

小久保陣屋があったのは富津市小久保、弁天山古墳の南西の麓で、いまの富津市中央公民館の敷地にあたります。明確な遺構はほとんど残らず、県知事邸の庭園らしきものと陣屋跡の石碑があるばかりです。隣の弁天山古墳のほうは昭和四年(1929年)十二月十七日に国の史跡に指定されています。

小久保藩をもっと詳しく

1万1270石のうち、村ごとの記録に残るのは8203石

小久保藩の石高は1万1270石とされます。ところが、明治の初めに全国の村ごとの石高と領主をまとめた『旧高旧領取調帳』で小久保藩の領地として確かめられるのは、8203石分にとどまります。上総の村には、一つの村を何人もの領主が分け合う「相給」が多く、村の数や石高を足し合わせても数字がきれいに合わないのです。

藩庁が置かれた小久保村は、寛政5年(1793年)の上総国の村高帳で村高1400石、家数300という大きな村でした。なお、田沼家に新しい領地を与える辞令の日付は、明治元年(1868年)9月21日とするものと9月23日とするものがあります。

遠江から392人が移り住みました

相良から移ってきた藩士は120戸、家族や小者を含めると392人にのぼりました。陣屋は真福寺から見て小久保川の北岸に建てられ、そのまわりが士族の屋敷地になっています。1万石余りの小藩とはいえ、400人近い人々が遠江から房総の一つの村へ、まとまって移り住んだことになります。

鳥羽・伏見では幕府方にいました

田沼意尊は、慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として加わっています。その直後の2月、新政府に従う意思を示す勤王証書を出しましたが、駿河・遠江の諸藩のなかで最も遅い提出だったとされます。それから7か月ほどで、相良の領地は徳川家の駿府移封の替地として召し上げられ、田沼家は房総へ移ることになりました。

軍役から見た小久保藩の規模

慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものでは、1万石あたり235人を動員するのが目安とされます。これを小久保藩の1万1270石に当てはめると約265人、十人単位に丸めると260人ほどになります。ただしこの規定は案の段階にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。いずれにしても、明治元年に生まれた小久保藩が、この規模の兵を出して戦う場面はありませんでした。

藩主は最勝福寺に眠り、藩校の跡は小学校に

明治2年(1869年)12月に亡くなった意尊は、領内の周准郡新御堂村にある最勝福寺に葬られました。藩校の盈進館では英語も教えられたと伝えられる一方で、明治期に文部省がまとめた『日本教育史資料』には英語の記載がなく、漢学と国学の教科書が挙げられています。英語の授業がどこまで行われたのかは、はっきりしていません。

廃藩から2年後の明治6年(1873年)11月15日、盈進館の跡地に小久保小学校が開かれました。これがいまの富津市立大貫小学校のはじまりです。町村制が敷かれたのちには、小久保は大貫村の一部になりました。藩は3年ほどで消えましたが、藩校の場所は学校として受け継がれたのです。

あわせて読みたい

意尊が追討軍を率いた事件については天狗党の乱とは何だったのかで詳しく取り上げています。駿河・遠江から房総へ移された家については田中城跡を歩いた現地取材の記事も参考になります。養子の田沼意斉の実家・大岡家については勝浦藩のページをご覧ください。

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