上総苅谷藩の歩み
寛永十九年(1642年)、「堀直景」は父である「堀直之」の遺領九千五百石を継いで本来の所領五百石と合わせて一万石を領する譜代大名として諸侯に列しました。これにより「上総苅谷藩」が立藩されました。
直景は寛文八年(1668年)八月に家督を嫡男「堀直良」に譲って隠居し、出家して宗三と号しました。直良は同年十二月に苅谷から上総国市原郡八幡に陣屋を移したため、ここに上総苅谷藩は廃藩となり、以後、堀氏は上総八幡藩として存続しました。
廃藩のあと—幕末の苅谷
苅谷は上総国夷隅郡、いまの千葉県いすみ市苅谷です。堀直良が陣屋を上総八幡へ移したあと、この地は大多喜藩領となりました。慶応四年の記録では、夷隅郡の村々のうち安房上総知県事の管轄が百十村、大多喜藩領が五十六村で、苅谷はその五十六村に含まれます。
そしてこの大多喜藩が、戊辰戦争の書き出しに登場します。最後の藩主・松平正質は、慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の指揮を任され、大敗して江戸へ逃れました。戦後、新政府から戦犯として官位と所領の没収を宣告され、佐倉藩に幽閉されます。同年八月に赦されて旧に復しましたが、藩としては請西藩や遊撃隊からの誘いを退けて恭順の道を選びました。
苅谷の陣屋跡はどうなっているか。遺構も碑も残っていません。いすみ市郷土資料館の調査によれば、寛永十年(1633年)に「苅谷村水流淵」に陣屋が築かれたと記録されるものの、現在は農地で、その小字名も使われていないとのことです。
陣屋の跡かたもない土地の殿様が、戊辰戦争の最初の一行に名を残しました。そういう場所です。
【廃藩のあと—幕末の苅谷】
まず場所です。苅谷藩の苅谷は上総国夷隅郡苅谷、いまの千葉県いすみ市苅谷にあたります。三河の刈谷藩(愛知県刈谷市)とはまったく別の藩です。
堀家は越後三条城主 堀直政の子(三男とも四男ともされます) 堀直之に始まる家で、直之から直景、直良の三代。千葉県教育振興財団『房総における近世陣屋』は、寛永十年(1633年)に夷隅郡苅谷を居所としたとしています。大名に列した寛永十九年と居所の設定年がずれるのは、この順序のためと考えられます。
陣屋は水田の下
陣屋があったのは、いすみ市苅谷字南川淵。夷隅川が南側を大きく湾曲して巡る場所です。現況は一面の水田で、耕地整理が済んでいるため詳しいことは分からないとされます。藩政期には家臣の楢林虎英が代官として居守したと伝わります。千葉県・いすみ市の指定文化財一覧に苅谷陣屋跡は載っていません。
苅谷から八幡、そして越後椎谷へ
寛文八年八月に直景が隠居し、直良が上総国市原郡八幡へ居所を移して上総八幡藩となりました。苅谷陣屋は廃止です。その後、元禄十一年に堀直宥の代で関東の領地が越後国内へ移され、越後椎谷藩になります。上総の陣屋から始まった家が、日本海側で幕末を迎えたことになります。
幕末の苅谷
『旧高旧領取調帳』にもとづくと、慶応四年の苅谷村・小苅谷村はいずれも大多喜藩領とされます。夷隅郡全体では政府管轄領(安房上総知県事)が百十村、大多喜藩領が五十六村、共有が三村という構成でした。
苅谷には六斎市の伝統があり、いまも「苅谷六斎市」として朝市が続いています。鎮守は国吉神社で、境内の大イチョウはいすみ市指定の天然記念物。宝生院の三十三観音像と石造地蔵菩薩倚像も市指定です。
江戸初期には大多喜城主 本多忠朝が慶長十四年と十六年に新田開発を行っており、「本多忠朝新田開発文書」は千葉県指定有形文化財(平成八年三月二十二日指定)になっています。藩は二十数年で去りましたが、この時期に開かれた田が、いまの水田のもとになっています。
同じころの日本—新井白石の正徳の治
綱吉のあとで 上総苅谷藩がなくなってから四十年ほどのちの宝永・正徳年間、宝永六年(1709)に五代将軍綱吉が亡くなると、六代将軍家宣は生類憐みの令を廃止し、学者の新井白石を重く用いて政治を改めました。白石の政治は「正徳の治」と呼ばれます。
白石の改革 白石は、元禄の貨幣改鋳で質の落ちた貨幣を元に戻し、長崎での貿易の額を制限して金銀が国外に流れ出るのを防ぎました。朝鮮通信使の迎え方を簡素にしたことでも知られます。房総の小藩もまた、こうした政治の転換の中にありました。
薄田兼相を討った北町奉行の家—堀直之と苅谷
道明寺の戦いの武功
苅谷藩の堀家の祖・堀直之は、堀直政の子で、大坂夏の陣の道明寺の戦いで豊臣方の勇将・薄田兼相を討ち取りました。のちに兼相の母から知らされて、手厚く供養したと伝わります。天王寺の戦いでは「われ鬼籍をまぬがれたり」と叫んで戦い続けたといいます。直之は寛永八年(1631年)に江戸の北町奉行となり、のちに寺社奉行も務めました。直之の妻は春日局の姪です。
苅谷の陣屋
苅谷(いまの千葉県いすみ市)に陣屋ができたのは寛永十年(1633年)で、直之が上総で四千石を加増されたときです。直之の子・直景が一万石の大名となり、苅谷藩が生まれました。堀家は江戸に住み続ける定府の大名で、苅谷には家臣を代官として送って治めていたと考えられます。三代の直良は大坂城加番を四回務めました。家格は譜代です。
駒込の大名寺
直之の墓は駒込の養源寺にあります。養源寺は稲葉正勝が建てた寺ですが、直之が寄進して堀家の菩提寺にしました。「駒込の大名寺」と呼ばれています。春日局の子が建てた寺に、春日局の姪の夫が眠っているのです。
苅谷から椎谷へ
苅谷藩の堀家は、のちに上総八幡を経て越後の椎谷へ移り、椎谷藩として幕末まで続きました(椎谷藩)。日本海を見下ろす丘の上の椎谷陣屋は戊辰戦争で焼け、いまは土塁と案内板が残ります。房総の苅谷と越後の椎谷、太平洋側と日本海側の両方に足跡を残した家でした。


