飯山戦争とは?衝鋒隊が飯山藩の寝返りで敗れ、城下が焼けた信州の戊辰戦争を図解でわかりやすく

慶応4年(1868)4月25日、信濃の北のはずれにある飯山の城下が、戦火に包まれました。攻めてきたのは、江戸を脱走した旧幕府歩兵の部隊「衝鋒隊」。けれども戦いの決め手になったのは、城を守る飯山藩が、最後の最後に衝鋒隊へ銃口を向けたことでした。城下は焼け、敗れた衝鋒隊は越後へ逃れます。信州で起きたただ一つの戊辰戦争の戦い、それが飯山戦争です。

この記事では、飯山戦争を、衝鋒隊とはどんな部隊だったのか、なぜ信濃の飯山まで来たのか、飯山藩はなぜ寝返ったのか、そしてこの敗北がのちの北越戦争にどうつながったのかの順に、進軍図とあわせて解説します。

目次

飯山戦争とは?ひとことで言うと

江戸開城に従わず脱走した旧幕府歩兵の部隊「衝鋒隊」が、会津から越後を回って信濃の飯山に入り、新政府軍の尾張藩・松代藩と戦った戦いです。衝鋒隊は一時は優勢でしたが、態度をはっきりさせていなかった飯山藩が城から衝鋒隊に発砲したことで総崩れとなりました。退くときに城下は焼かれ、衝鋒隊は越後へ逃れたあと、北越戦争の戦場へと向かいます。

期間 慶応4年4月25日〜26日(1868年5月17日〜18日)
場所 信濃国 飯山城下(現在の長野県飯山市)と、越後の新井(新潟県妙高市)
旧幕府側 衝鋒隊(隊長・古屋佐久左衛門、副隊長・今井信郎)約500〜600名
新政府側 尾張藩・松代藩の兵(約1,500とも)。途中から飯山藩、退却時には高田藩も衝鋒隊を攻撃
結果 衝鋒隊が敗れて越後へ退く。飯山城の櫓や塀、城下の町家・寺社の多くが焼けた。衝鋒隊は小千谷で集まりなおし、北越戦争を戦う

衝鋒隊とはどんな部隊だったのか

脱走した幕府歩兵をまとめた古屋佐久左衛門

鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った幕府の歩兵部隊のなかには、江戸開城の話が進むことに反発して脱走する者が相次ぎました。第11連隊・第12連隊の兵たちもそうです。この脱走兵を説得してまとめ直したのが、幕府陸軍の歩兵指図役頭取だった古屋佐久左衛門でした。

古屋は、イギリスの歩兵の教本を翻訳したこともある、洋式軍隊の知識を持った人物です。弟は、のちに箱館で敵味方なく負傷者を治療した医師・高松凌雲。古屋は陸軍総裁の勝海舟から「信濃を鎮める」という名目をもらって江戸を出て、兵をまとめていきました。副隊長には、京都見廻組で坂本龍馬の暗殺に加わったと語った剣客・今井信郎がつきます。こうして集まった兵は、約900名にのぼりました。

梁田の戦い:朝霧の中の奇襲で大敗

ところが、部隊はいきなりつまずきます。慶応4年3月9日の朝、下野の梁田宿(栃木県足利市)に泊まっていた古屋の部隊を、薩摩・長州・大垣の新政府軍が奇襲しました(梁田の戦い)。

この朝は霧が深く、新政府軍は近づくまで気づかれませんでした。部隊は少しの見張りを置いただけで、兵の多くは朝食や出発の準備をしていたといいます。三方から攻められた部隊は渡良瀬川の方へ崩れ、60人をこえる死者を出しました。一方の新政府軍の死者は、わずか3人でした。洋式の訓練を受けた部隊であっても、見張りをおこたれば一朝で崩れる。梁田の戦いは、それを示す戦いになりました。

梁田の戦いのイメージイラスト。朝霧の中、宿場に泊まっていた旧幕府歩兵が新政府軍の奇襲を受ける
梁田の戦いのイメージ。朝霧の中、梁田宿に泊まっていた部隊を新政府軍が三方から襲った(イラスト)

会津で「衝鋒隊」となり、越後へ

敗れた部隊は鹿沼で立て直し、会津へ入りました。3月22日に会津藩主・松平容保に会い、24日に「衝鋒隊」と名のります。そして25日、衝鋒隊は会津を出て越後へ向かいました。

なぜ衝鋒隊は飯山へ来たのか

飯山戦争の進軍図。衝鋒隊は会津から新潟・与板・高田を経て飯山に入り、尾張藩・松代藩と戦って敗れ、小千谷へ退いた
衝鋒隊の越後・信濃転戦(慶応4年3月〜閏4月)。越後を回って飯山に入り、敗れて小千谷へ退いた

越後を回って軍資金を集める

衝鋒隊は4月1日に新潟に入り、越後の諸藩から軍資金を出させながら進みました。4月11日には与板藩を脅して7,000両を手に入れています。その後、柏崎を経て4月16日に高田へ。高田藩(榊原家15万石)は「乱暴なふるまいはしない」という誓いの書面を取ったうえで、領内を通ることを認めました。

堀の向こうに見える高田城の三重櫓
高田城(新潟県上越市)。榊原家15万石の高田藩は、衝鋒隊に誓いの書面を出させて領内の通行を認めた

信濃から江戸をめざす

衝鋒隊のねらいは、越後から信濃へ抜け、北西の方角から江戸を取り戻すことにあったとされます。高田から新井を経て国境を越えると、その先が北信濃の飯山です。4月23日、衝鋒隊は飯山の城下に入りました。

飯山藩の苦しい立場

飯山藩は本多家2万石の小さな藩です。藩主の本多助成はまだ22歳でした。この年の3月、飯山藩は新政府から「態度がはっきりしない」ととがめられて謹慎を命じられ、軍資金1万5,000両を差し出したばかりでした。そこへ、旧幕府の大部隊がやってきたのです。

断れば城下が戦場になる。受け入れれば新政府からまた疑われる。飯山藩は、城下の本町の40数軒の家と真宗寺を衝鋒隊の宿に割り当てました。真宗寺は衝鋒隊の本陣となります。島崎藤村の小説『破戒』に出てくる蓮華寺のモデルになった寺です。くわしくは飯山藩のページでも紹介しています。

4月25日、飯山戦争

尾張藩・松代藩が攻め寄せる

衝鋒隊が飯山に入ったという知らせを受けて、北信濃の中野にいた尾張藩の兵と、松代藩の兵が飯山へ向かいました。新政府軍は千曲川をはさんだ対岸に本陣を置き、4月25日、砲撃を始めます。衝鋒隊は千曲川の岸に陣を構えて応戦し、はじめのうちは優勢に戦いました。

飯山藩が城から発砲する

ここで飯山藩が動きます。それまで衝鋒隊を城下に泊めていた飯山藩は、新政府方につく旗を掲げて城門を閉ざし、城の中から衝鋒隊に向けて大砲と銃を撃ちかけました。城下に陣を構えていた衝鋒隊にとっては、すぐ後ろからの思わぬ攻撃です。前を新政府軍に、後ろを飯山藩にはさまれた衝鋒隊は、総崩れとなりました。

城下が焼ける

衝鋒隊は退くときに城下に火を放ち、飯山の町は炎に包まれました。火が消えたのは翌日の午後だったといいます。飯山市の資料は、この戦いで城内も燃え、櫓や塀などが焼け落ちたと伝えています。町家と寺社の焼失は1,000近くにおよんだという言い伝えもあります。城は落ちませんでしたが、城下の多くが失われました。

飯山城跡(城山公園)に移築された城門
飯山城跡(城山公園)の城門。戊辰戦争の火で城の櫓や塀も焼け、いま城山に残る往時の遺構は石垣のみ

敗走、そして北越戦争へ

高田藩にも攻められる

飯山から越後の新井へ逃げ戻った衝鋒隊を、さらに高田藩が攻めました。4月26日の夕方、高田藩は衝鋒隊がいた川浦の代官所を砲撃します。つい10日ほど前に通ることを許した高田藩までが、敵にまわったのです。衝鋒隊はばらばらになり、松之山街道を通って小千谷へ逃れました。

堀越しに見る高田城の三重櫓
高田城の三重櫓。高田藩は衝鋒隊の通行を許したあと、新政府側として衝鋒隊を攻めた

小千谷で集まりなおし、北越の戦場へ

衝鋒隊は小千谷で兵を集めなおし、会津藩の兵とともに越後の守りにつきました。閏4月27日からの鯨波の戦いでは雪峠を守り、その後も越後で新政府軍と戦い続けます。北越戦争で長岡藩とともに戦った旧幕府方の部隊のひとつが、この衝鋒隊でした。

新政府軍は、越後に入りこんだ会津藩や衝鋒隊を警戒して、北陸道から越後へ大軍を進めていました。5月2日、長岡藩の家老・河井継之助は小千谷の新政府軍本営を訪ね、中立を認めてほしいと訴えましたが、聞き入れられませんでした(小千谷談判)。こうして長岡藩も戦いに加わり、越後は戊辰戦争でも有数の激戦地となっていきます(長岡藩)。

衝鋒隊のその後

越後での戦いのあと、衝鋒隊は会津、仙台へと退き、榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地へ渡りました。古屋佐久左衛門は明治2年(1869)5月、五稜郭で新政府軍の艦砲射撃を受けて重い傷を負い、弟・高松凌雲の箱館病院に運ばれましたが、6月に37歳で亡くなっています(箱館戦争)。今井信郎は降伏後、龍馬暗殺について取り調べを受け、のちに静岡で暮らしました。

戦いの流れ(慶応4年)

月日 出来事
2月〜3月古屋佐久左衛門が脱走した幕府歩兵をまとめ、約900名の部隊をつくる
3月9日梁田の戦い。朝霧の中で奇襲を受け、60人をこえる死者を出して敗れる
3月24日会津で「衝鋒隊」と名のる
4月1日新潟に入る
4月11日与板藩から7,000両を出させる
4月16日高田へ。高田藩が誓書を取って通行を許す
4月23日飯山城下に入り、真宗寺を本陣とする
4月25日飯山戦争。尾張藩・松代藩と戦い、飯山藩の発砲で総崩れ。城下が焼ける
4月26日新井で高田藩の攻撃を受け、松之山街道を小千谷へ逃れる
閏4月27日〜鯨波の戦い。衝鋒隊は雪峠を守る
5月2日小千谷談判。長岡藩の中立の訴えが退けられ、北越戦争が本格化する

この戦いが示したもの

飯山戦争は、大きな勢力のはざまに置かれた小さな藩が、最後にどちらにつくかで戦いの勝ち負けが決まった戦いでした。飯山藩は衝鋒隊を泊めながら、新政府軍が来ると城から衝鋒隊を撃ちました。高田藩も、通行を許した衝鋒隊を数日後には攻めています。どちらも、藩と領民を守るためのぎりぎりの選択でした。

そして衝鋒隊の側から見れば、梁田と飯山の2度の敗北は、洋式の訓練を受けた兵であっても、見張りや周りの藩の動きを読みちがえれば一気に崩れることを示しています。北信濃で行き場を失った衝鋒隊は越後へ戻り、その動きはやがて長岡藩をも巻きこむ北越戦争へとつながっていきました。

現地を歩く ― 飯山城跡と高田城址

飯山城跡はいま城山公園として整備され、本丸と二の丸のあたりに石垣が残っています。城門は平成6年(1994)に城山へ移されて復元されました。城の大手門は市内の信叟寺の山門として移されていて、戊辰戦争のときの弾痕が残っているといいます。飯山城については飯山城のページで紹介しています。

衝鋒隊が通り、のちに攻めることになった高田藩の城下町・上越市の高田城址には、堀と三重櫓が残ります。くわしくは【現地取材】高田城址を歩くで紹介しています。

筆者の感想

衝鋒隊は梁田で奇襲を受けて、壊滅的なダメージを受けたんですよねー。古屋も洋式軍隊の訓練を受けていたと思うのですが、油断ですかね。今井信郎や永井蠖伸斎など、けっこうな経歴の右腕もいました。そういうところは、洋式と斬り込み主体とのあいだでうまくかみ合ったのかな、とも思いましたけど、でも土方も早い時期から洋式に頭を切り替えていましたからね。

そして、ここでの敗戦が、のちの長岡戦争にまで影響を与えたのだろうなと思いました。

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参考資料

  • 『飯山市誌』
  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社)

文・写真:佐藤秀信
※進軍図はイラストです

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