飯山城は長野県飯山市飯山にあった平山城です。
築城時期は不明だが戦国時代にこの地域を治めていた「高梨政頼」が甲斐の武田信玄の侵攻により「高梨氏館」から支城である飯山城へ逃れました。

第四次川中島の戦いでは上杉謙信の先方となり活躍するが旧領への復帰はなりませんでした。天正十年(1582年)以降は、上杉謙信の跡を継いだ「上杉景勝」の居城となり、城代として「岩井信能」が入城しました。

豊臣秀吉が天下を統一すると秀吉直臣である「石川光吉」が代官として北信濃を支配したが、慶長三年(1598年)には「関一政」が三万石で入封しました。関氏は翌年に美濃土岐へと移封となり、その後、慶長八年(1603年)徳川家康の6男「松平忠輝」が川中島に十八万石で入封しました。

飯山には、松平忠輝の傅役だった皆川広照が四万石で入りましたが、のちに家康によって領地を取り上げられました。その後は堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と、城主がめまぐるしく替わります。享保二年(1717年)に本多助芳が越後糸魚川から移ってくると、ようやく城主が定まり、以後は本多家が明治維新まで飯山城を治めました。

なお、明治元年(1868年)には旧幕府軍の「衝鋒隊」から攻撃を受け城下を焼かれた(飯山戦争)。現在の本丸跡は葵神社境内となり、二ノ丸は「城址公園」として整備されています。城の遺構は石垣や土塁が残っています。

飯山戦争は、慶応四年四月のことでした
本文にある飯山戦争の時期を、もう少し細かく書いておきます。上越市公文書センターの展示資料「戊辰戦争と高田藩」によると、古屋作左衛門(佐久左衛門)の率いる旧幕府軍歩兵およそ八百人が四月十六日に柿崎へ着き、飯山の真宗寺に陣を構えました。そして救援に駆けつけた尾張・松代の連合軍が四月二十五日に古屋隊を砲撃したため、古屋隊は新井へ逃げ帰っています。
同じ資料は閏四月の出来事を別に書き分けているので、飯山は閏四月ではなく四月です。衝鋒隊の側の記録でも、四月二十三日から二十五日にかけて飯山城下へ迫り、二十五日に松代・尾張の藩兵と戦闘が始まったとされています。
なお飯山市の公式は、この事件の襲撃側を「浪士隊」と表記し、「慶応四年、浪士隊による飯山戦争では、城内も炎上し、櫓や塀などは消失しました」と記しています。相楽総三の赤報隊の残党がこれに関わったとする資料は見あたりませんでした。
藩は、途中で撃ちました
このとき飯山藩がどう動いたかが、話をややこしくしています。越後高田方面から入ってきた衝鋒隊が飯山を拠点にしようとしたのに対し、藩は当初は日和見的な態度を取り、そのあと突然 衝鋒隊に向けて発砲しました。城下が戦火をこうむったのはそのあとです。藩主は新政府から態度が曖昧だと叱責されたとも伝わります。
善光寺地震で半壊していました
飯山城は梯郭式の典型で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を階段状に配し、堀をめぐらせて切岸と土塁を築いた城でした。建物は本丸に二重櫓が二棟、三ノ丸に一棟、門が十五か所あったとされます。
ただし飯山戦争の二十一年前、弘化四年(1847年)の善光寺地震で「石垣や塀、門・御殿、櫓など多くの城内構築物が半壊、全壊」していました。地震で傷んだ城が、そのあと戦火を受けたことになります。
県の史跡です
城跡は長野県指定史跡「飯山城跡」で、昭和四十年(1965年)七月二十九日の指定。指定区域は本丸および二ノ丸の範囲です。市指定ではありません。
現存する門はなく、南中門跡に二重の櫓門が移築復元されています。城内のどの門だったのかは分かっていません。城の門は市内の妙専寺、長野市田子の民家、中野市江部の民家、長野市信雙寺へ移されたと伝わります。
桜の名所で、四月中旬から下旬に飯山城址さくらまつりが開かれ、ぼんぼりの灯りとともに夜桜も楽しめます。市内には正受庵(県史跡「恵端禅師旧跡正受庵」昭和三十五年二月十一日指定)や、岩井氏が天文年間に築いたといわれる山口城跡があります。
最後の藩主は、授爵していません
本多助実は文政二年(1819年)生まれで、明治十年(1877年)三月一日に五十九歳で亡くなりました。華族令(明治十七年七月七日)の七年前です。そのため子爵になったのは助実ではなく、子の本多実方でした。明治六年十一月に兄 助順の死去で家督を継ぎ、明治十七年七月八日に授爵しています。
飯山城の始まりと、いまに残る門
泉氏の館から謙信の城へ
飯山城は、もとは土地の豪族・泉氏の館だったとされます。永禄七年(1564年)、上杉謙信が武田方に備える前線の拠点として、ここに本格的な城を築きました。天正十一年(1583年)には、城代の岩井信能が城下町づくりを始めています。慶長十五年(1610年)には、のちに越後長岡へ移る堀直寄も、飯山の城主となっています。
寺に移された門
明治六年の廃城令ののち、門の一部が払い下げられました。大手門は長野市の信叟寺の山門となりましたが、二層目は焼けて失われています。不明門(あかずのもん)は飯山市の妙専寺に移されました。南中門の跡には、民家から戻された二層の門が建っています。本丸は葵神社、二の丸は城山公園となり、城跡は昭和四十年(1965年)に長野県の史跡に指定されました。
戊辰戦争で飯山城と城下が戦火に包まれた戦いは、こちらで詳しく解説しています。
飯山戦争とは?衝鋒隊が飯山藩の寝返りで敗れ、城下が焼けた信州の戊辰戦争を図解でわかりやすく
場所・アクセス・地図
長野県飯山市飯山



