江戸崎藩の歩み
慶長八年(1603年)、本多正信や内藤清成らと並んで関東総奉行を務めた徳川氏譜代の家臣「青山忠成」が一万石で入ったことにより江戸崎藩が立藩します。なお、忠成の嫡子「青山忠俊」は父とは別に五千石を領していたが、徳川家光の後見人となったため、慶長十五年(1610年)に下野国都賀郡鹿沼において五千石を加増され、一万石の大名となっています。
慶長十八年(1613年)、忠成が死去したため、忠俊がその遺領を相続して都合三万五千石を領することとなりました。元和二年(1616年)には老中に栄進し、元和六年(1620年)にはさらに一万石を加増されて武蔵岩槻藩に移封となりました。
その後、常陸国古渡藩の「丹羽長重」が元和五年(1619年)に江戸崎で加増を受けて二万石となるが、元和八年(1622年)に三万石加増の上で陸奥棚倉藩へ加増移封となり、江戸崎藩は廃藩となりました。
幕末の江戸崎は、三つの領主で分け合っていました
丹羽長重が棚倉藩へ移ったあと、江戸崎に藩は戻りませんでした。『旧高旧領取調帳』にもとづく調査では、幕末の江戸崎町と江戸崎村は、幕府領・旗本領・下総関宿藩の三者による相給です。天領でも土浦藩領でもありません。信太郡全体では旗本領が三十村、土浦藩が十六村、関宿藩が十二村、そして仙台藩の飛地が十三村ありました。常陸の南に伊達家の領地があったわけです。
江戸崎城の跡は稲敷市江戸崎、比高二十メートルほどの崖のふちに築かれた城でした。江戸崎土岐氏の居城で、小田原の役のあとは佐竹義重の次男・蘆名盛重が入って城下町を整えます。慶長七年(1602年)の佐竹氏の秋田移封で廃城となりました。いまは江戸崎小学校と町の研修センターになっており、本丸跡とされる山城稲荷神社のあたりに土塁が残ります。
幕末の常陸といえば水戸藩の内乱です。元治元年(1864年)三月二十七日、藤田小四郎ら六十二人が筑波山で挙兵し、数日で百五十人、最も多いときで千四百人にふくれ上がりました。
戦火は南へも広がります。六月二十一日、田中愿蔵の別働隊が土浦の真鍋宿で火を放ち、略奪と殺戮を行いました。七月七日には下妻藩の多宝院に置かれた幕府軍の本陣を夜襲して成功し、士気の低い諸藩の軍は敗走します。多宝院は焼け、明治四十年まで再建されませんでした。十月、天狗党は那珂湊で包囲され、海上からは幕府海軍の艦砲射撃を受けて千人余りが降伏します。
ただし、この戦火が霞ヶ浦の南岸、江戸崎まで及んだことを示す記録は見つかっていません。確かめられる最も南は、霞ヶ浦の西岸にあたる真鍋宿までです。
江戸崎に残る江戸後期のものとしては、瑞祥院の五百羅漢があります。文化元年(1804年)に完成し、いまも四百九十三基が残ります。寄進した人は下総・上総・江戸など五百二十二名を数えました。境内には天保十四年(1843年)に江戸崎出身の江戸商人・伊勢屋宇兵衛が架けた石橋も残ります。
東京の「青山」の名を残した青山忠成
最初の江戸崎藩主・青山忠成は、家康が関東に入ったころの江戸の町づくりにかかわった譜代の家臣で、本多正信・内藤清成とともに関東総奉行を務めました。いまの東京都港区・渋谷区の「青山」という地名は、この忠成の屋敷が赤坂の西に与えられたことに由来するといわれます。家康が鷹狩りの際に「馬でひと回りしただけの土地を与える」と言い、忠成が馬で駆けて広い土地を得た、という言い伝えも残っています。
忠成の子・青山忠俊は、のちの三代将軍・家光の守り役(傅役)を任され、老中にもなりました。しかし家光に遠慮なく厳しく意見したことが疎まれ、家光が将軍になった元和九年(1623)に領地を取り上げられています。
青山家の幕末—丹波篠山藩と美濃郡上藩
青山家はその後許されて大名に戻り、忠俊の家の流れは寛延元年(1748)に丹波の篠山藩主となって幕末を迎えました。また、忠成の別の子の流れは美濃の郡上藩主となり、戊辰戦争のときに江戸詰の藩士たちが凌霜隊を組んで会津まで戦っています(郡上藩)。江戸の町づくりに名を残した家は、丹波と美濃で、それぞれの幕末を迎えました。
江戸崎城の蘆名盛重
藩ができる前の江戸崎城には、常陸の佐竹義重の次男・蘆名盛重(義広)がいました。盛重は会津の名門・蘆名家に養子に入りましたが、天正十七年(1589)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れて会津を追われ、実家の佐竹家を頼って江戸崎に入ったのです。佐竹家が秋田へ移されるとともに盛重も江戸崎を去り、そのあとに青山忠成が入りました。
浅井畷の丹羽長重と、二本松への道
長重という人
丹羽長重は元亀2年(1571)生まれで、天正13年(1585)に父・丹羽長秀の跡を継ぎました。家臣の軍律違反を理由に秀吉に領地を削られ、加賀松任を経て小松へ移っています。慶長5年(1600)には関ヶ原に出陣せず前田利長と戦い(浅井畷の戦い)、戦後に領地を没収されて品川で謹慎しました。
1万石からの復活
慶長8年(1603)ごろ常陸古渡で1万石を得て大名に戻り、大坂の陣にも出陣しました。将軍秀忠・家光の話し相手(御談伴)も務めています。江戸崎で加増を受けたのち、元和8年(1622)に陸奥棚倉5万石へ移り、寛永4年(1627)には白河10万石余へ移って小峰城の大改修と城下の町割りを行いました。江戸崎で加増を受けた年は、元和5年とする資料があります。
江戸崎生まれの子・光重
二本松市の資料によると、三男の丹羽光重は元和7年(1621)、「古渡江戸崎領主」だった長重の子として生まれました。光重は寛永20年(1643)に二本松藩10万石余の初代藩主となります。二本松藩丹羽家は外様で大広間詰、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって落城し、二本松少年隊の悲劇が生まれました。
考察:江戸崎は二本松の「出発点」だった
改易から1万石で再起した長重が江戸崎にいたころに生まれた子が、二本松藩の祖になった。戊辰戦争の二本松少年隊の物語をさかのぼると、常陸の小さな藩にたどり着きます。この縁は、もっと知られてよいと思います。



