小山藩の歩み
「本多正純」は徳川家康の謀臣であった「本多正信」の嫡子で、正純も父に劣らず知略に優れていました。家康が大御所になり「征夷大将軍」を秀忠に譲ると正純は家康側近として権勢を大いに振るいました。家康没後は「徳川秀忠」に仕え、元和二年(1616年)には二万石の加増を受けました。

元和五年(1619年)、正純は下野宇都宮藩十五万五千石に加増移封となり、小山藩は廃藩となります。その所領については、宇都宮藩の領地に組み込まれ、元和8年(1622年)の正純の改易後に古河藩の領地になったとする資料と、このときすぐに隣接する古河藩の領地になったとする資料があります。なお、絶大な勢力を誇った本多一族だったが、秀忠側近の「土井利勝」や奥平家(秀忠の姉婿)らの勢力盛り返しにあい幕閣から退きました。
当初五万五千石の減封処分とされたが、これを受けなかったため秀忠の逆鱗に触れ、最期は改易処分にされました。その身柄は出羽佐竹家へ預けられ、その後横手に移されて永年蟄居の身となりました。幕府の権勢を欲しいままにしていた正純はこの地で静かに最期を迎えました。
小山は、栃木県での戊辰戦争の初期の戦場の一つとなりました
まず領主の変遷を整理します。江戸時代の小山は古河藩領となったのち、延宝三年に幕府領、天和二年にまた古河藩領、貞享二年に幕府領と移り、安永三年(1774年)から宇都宮藩領となって幕末に至りました。古河藩に吸収されたまま終わったわけではありません。
小山は日光道中の宿場で、壬生通りのほか結城道・佐野道・栃木道が分かれる「五街道追分の地」でした。天保十四年(1843年)の調べで家数四百二十三軒、人口千三百九十二人、本陣一軒、脇本陣二軒、そして旅籠七十四軒。街道が集まる町の賑わいがうかがえます。
そしてここが、戊辰戦争で栃木県の初期の戦場の一つになりました。慶応四年(1868年)四月十六日から十七日、小山の戦いです。新政府軍は八小隊およそ三百二十人で、うち三小隊が彦根藩兵。対する旧幕府軍は大鳥圭介の率いる伝習隊およそ二千人で、西洋式の装備と訓練を備えていました。
二日間に四回の戦闘があり、銃撃戦と白兵戦が交わされて、新政府軍は敗走します。彦根藩の一小隊は敵中に取り残され、青木貞兵衛以下十一人が討死しました。戊辰戦争のなかで数少ない、旧幕府軍の勝利でした。この三日後の四月十九日に宇都宮城が落ち、四月二十三日に奪い返されます。小山市中央町の常光寺には、阿弥陀如来像の台座の後ろにこの戦いの流弾の跡が残っています。
本多正純のその後も書いておきます。元和八年(1622年)に改易されたのち出羽由利へ流され、寛永元年(1624年)に佐竹義宣へ預けられて横手へ移り、千石を与えられました。そして寛永十四年(1637年)二月二十九日、配所の横手で亡くなりました。七十三歳です。墓は横手市の上野台にいまも残ります。
なお小山評定の跡は市の史跡で、市役所の北側の小山御殿広場には、発掘にもとづいて建物の配置と堀・土塁が平面表示されています。祇園城跡は「小山氏城跡」として平成三年に国の史跡に指定されました。
天下分け目を決めた「小山評定」
小山は、関ヶ原の戦いの直前に、その行方を決める軍議が開かれた場所です。慶長五年(1600)七月、会津の上杉景勝を討つために東へ向かっていた徳川家康は、下野の小山に陣を構えていたところで、上方で石田三成が挙兵したという知らせを受けます(家康が会津攻めに向かったいきさつは西方藩の項も参照)。
七月二十五日、家康は従軍していた諸大名を集めて、このまま上杉を攻めるか、引き返して三成と戦うかを諮りました。このとき、豊臣家恩顧の大名である福島正則が真っ先に家康に味方すると声を上げ、山内一豊が自分の掛川城を家康に差し出すと申し出たことで、諸将の心が一つにまとまったと伝えられます。これが「小山評定」です。軍勢は西へ引き返し、九月十五日の関ヶ原の戦いへと向かいました(評定の細かな様子は後世の記録によるところが多く、史実としては議論もあります)。
藤原秀郷の子孫・小山氏の城
本多正純が治める前の小山の城は、平安時代に平将門を討った藤原秀郷の子孫を名のる名族・小山氏の本拠、祇園城でした。小山氏は鎌倉幕府の有力な御家人として下野の守護を務め、戦国時代まで続きましたが、小田原の北条氏に従ったため、北条氏の滅亡とともに没落します。思川の崖の上に築かれた祇園城の跡には、いまも堀や土塁が残り、国の史跡に指定されています。正純はこの城を改修して入りましたが、のちに宇都宮へ移り、宇都宮釣天井事件の噂の中で失脚しました(榎本藩の項も参照)。
小山藩をもっと詳しく
藩の成り立ち
小山藩は、慶長十三年(1608年)に本多正純が三万三千石を与えられて始まりました。藩庁は、小山氏の本拠だった小山城(祇園城、いまの栃木県小山市)に置かれています。元和二年(1616年)に二万石を加えられて五万三千石となり、元和五年(1619年)に正純が宇都宮十五万五千石へ移ったことで、藩はわずか十一年ほどで終わりました。
藩主・本多正純という人
正純は永禄八年(1565年)の生まれです。父の本多正信が三河一向一揆で家康に背いて国を離れていたあいだ、正純は母とともに家康の重臣・大久保忠世のもとで守られていたとされます。のちに父子そろって家康の信頼を得ることになりますが、その出発点は苦しいものでした。
関ヶ原の戦いのあとには、捕らえられた石田三成の身柄を預かる役を務めています。慶長八年(1603年)に江戸幕府が開かれると重く用いられ、家康が駿府に移ってからは大御所の側近として政治を支えました。大坂冬の陣のあと、大坂城の内堀まで埋め立てる策を家康に進言したのは正純だったともいわれます。慶長十七年(1612年)には、正純の家臣・岡本大八が肥前の有馬晴信をだまして金品を受け取っていた岡本大八事件が発覚し、これが幕府のキリスト教禁止を強めるきっかけの一つになりました。小山藩主だった時期は、ちょうど正純がもっとも権勢をふるった時期に重なります。
藩の終わりと、その後の正純
正純の改易は、元和八年、出羽山形城の受け取りに出向いていたときに十一か条の疑いを突きつけられたことに始まります。鉄砲をひそかに作らせたこと、宇都宮城本丸の石垣を許しなく修理したことなどが挙げられ、将軍秀忠の暗殺をたくらんだという「宇都宮城釣天井事件」の噂もこれに結びつけられました。この背景には、正純の宇都宮入りによって宇都宮から古河へ移された奥平家と、その祖母で家康の長女にあたる亀姫の恨みがあったとする説があります。正純は知行を千石に減らされて流され、寛永十四年(1637年)二月、出羽横手で七十三歳で亡くなりました。
本多家の子孫
正純の子の正勝も父とともに流されました。その後、孫の正好は戸田氏鉄に保護され、和田の姓を名乗って旗本として家を再び興しています。大名としての正純の家は絶えましたが、血筋は旗本として江戸時代を通じて残ったことになります。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万三千石のこの藩はおよそ千二百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。なお小山藩があったのは元和五年までで、この規定より前の時代です。
参考:Wikipedia「小山藩」「本多正純」など



