古河藩/土井家8万石:土井利与 大政奉還後はいち早く新政府軍に恭順した古河藩

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古河藩の歩み

幕末の藩主「土井利与」は元治二年(1865年)四月一日、将軍「徳川家茂」に拝謁します。同年十二月十五日、従五位下内膳正に叙任し、家督相続後「大炊頭」に改めます。慶応三年(1867年)四月五日、父利則の隠居により家督を継いで第7代藩主となります。

古河藩/場所・アクセス・地図 土井家8万石:土井利与 大政奉還後はいち早く新政府軍に恭順した古河藩【幕末維新写真館】

慶応四年(1868年)一月十四日、旧幕府から神奈川守備の増強を命じられこれに従うが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、同年四月六日に上洛して新政府への恭順を示しました。同年閏四月二十二日には「新政府軍」へ貸し付けていた軍資金10500両を献上することを申し出ます。その後も一貫して新政府軍に協力したお陰で激動の幕末期を全うしました。

明治二年(1869年)六月の「版籍奉還」で利与は「古河藩知事」に任じられ、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で罷免され古河藩も廃藩となります。

土井家の古河藩

古河藩は、下総国(現在の茨城県古河市)に置かれた八万石の藩で、古河城を居城としました。藩主の土井家は、徳川三代将軍・家光を支えた大老・土井利勝を出した名門で、江戸の北を守る要衝を代々治めてきた重要な譜代大名です。

いち早い恭順

大政奉還ののち、古河藩は戊辰戦争にあたっていち早く新政府軍への恭順を選びました。譜代の名門でありながら、時代の流れを冷静に見極めて家名と領地を守ったのです。関東の要地を預かる大藩が下した、現実的な判断がうかがえます。

雪の結晶を描いた殿様がいました

日本で最初の、雪の結晶図鑑

古河藩十一代の土井利位は「雪の殿さま」と呼ばれます。天保三年(1832年)に刊行した『雪華図説』が、日本で初めて雪の結晶を観察して描いた図鑑だからです。

利位は自ら顕微鏡で雪を覗き、その形を「雪華」と名づけました。観察を続けた期間は、古河市の説明では二十年以上、辞典では三十年とされます。天保十一年(1840年)には続編も出しました。大名が藩政のかたわら、降る雪を一つずつ拡大して写生し続けた。そういう人が老中になりました。

面白いのはその先です。この雪華の文様が、利位の官職名「大炊頭」にちなんで「大炊模様」と呼ばれ、絵画や工芸、着物の柄として庶民のあいだに広まりました。殿様の趣味が流行になった珍しい例です。名工の原羊遊斎が作った雪華文蒔絵印籠は国の重要文化財になっています。

家老の肖像が、国宝になりました

利位に蘭学を教えたのが、家老の鷹見泉石でした。名は忠常、オランダ名をヤン・ヘンドリック・ダップルといいます。地理学に通じ、「新訳和蘭国全図」や「蝦夷地北蝦夷地図」を作り、渡辺崋山や川路聖謨といった当時の知識人と広く交わりました。

その渡辺崋山が天保八年(1837年)に描いたのが「鷹見泉石像」です。絹本淡彩鷹見泉石像〈渡辺崋山筆〉は昭和二十六年(1951年)六月九日に国宝に指定されました。いまは東京国立博物館の所蔵です。八万石の藩の家老の顔が、国宝として残っている。泉石が集めた蘭学関係の資料三千百五十一点も、平成十六年(2004年)六月八日に重要文化財となり、古河歴史博物館に収められています。

大塩平八郎の乱を鎮めた大坂城代

利位が歴史の表舞台に出るのは天保八年(1837年)二月十九日でした。大坂で大塩平八郎の乱が起きます。前年の大飢饉で大坂に餓死者が出ているのに、東町奉行の跡部山城守が救済をせず、かえって大量の米を江戸へ送ったことが引き金でした。大塩は蔵書を売り払って金に換え、近隣の農民に配ったうえで挙兵しています。

このとき大坂城代だったのが利位です。隣接する諸藩に来援を求め、西町奉行堀伊賀守の指揮のもとで銃を用いて鎮圧しました。反乱は一日ももたずに四散し、大塩は四十日ほどのちに潜伏先を突き止められて自決します。利位はこの功で同年五月に京都所司代へ進み、天保九年(1838年)に西丸老中、翌年に本丸老中となりました。

天保十四年(1843年)十一月には老中首座。幕府の財政を一時黒字にしたとも伝えられますが、江戸城火災の復興資金の調達につまずいて将軍の不興を買い、水野忠邦が復帰したあとに辞めています。嘉永元年(1848年)に六十歳で没しました。雪の結晶を描いた人が、天保の改革の裏側にいたことになります。

初代は、江戸幕府最初の大老でした

土井家の祖である土井利勝は、天正元年(1573年)の生まれ。出自については土井利昌の子とする説のほか、徳川家康の庶子とする説、水野信元の子とする説があり、確定していません。幼いころから徳川秀忠に近侍し、慶長十五年(1610年)に年寄、寛永十年(1633年)に下総古河へ十六万石で移りました。そして寛永十五年(1638年)、酒井忠勝とともに大老に任じられます。江戸幕府最初の大老でした。

土井家はいったん古河を離れますが、宝暦十二年(1762年)に再び入り、老中利厚の代に一万石を加えられて八万石となって幕末を迎えます。藩校の盈科堂は享保九年(1724年)に唐津で開かれたもので、宝暦十二年の移封にともなって古河へ移りました。名は『孟子』の「流水の物たるや、科に盈たざれば行かず」から取られています。水が窪みを満たしてから先へ進むように、学問も順を追うべきだ、という意味です。無点の唐本をすらすら読めることが学業成就の目安とされ、授業は朝八時から正午まででした。

城は、川に消えました

古河城は十五世紀の中ごろ、鎌倉公方の足利成氏がこの地へ移ったときに整えられた城です。江戸時代には十一家が十二回にわたって入れ替わり、土井利勝が十六万石を領した時代に本丸の御三階櫓が建ち、城下の形が整いました。南北およそ千八百メートル、東西三百五十から四百メートル。出城の諏訪曲輪を含めれば関東でも有数の規模でした。

その城がいま、ほとんどありません。明治四十三年(1910年)から始まった渡良瀬川の改修で流路が変えられ、古河城の主要部分はほとんど破壊されて河川敷になりました。中世以来の古城が壊滅した、と古河市観光協会は書いています。廃城令ではなく、河川工事で消えた城です。

残っているのは断片です。城の乾門は、明治六年(1873年)の取り壊しの際に檀家が払い下げを受けて寺へ寄進し、いま福法寺の山門として立っています。平唐門造りで、高さ六百十五センチ、幅九百三十七センチ。市の文化財です。ほかに文庫蔵と燈籠、そして諏訪曲輪と観音寺曲輪の地形が残ります。

その諏訪曲輪の跡に建てられたのが、平成二年(1990年)開館の古河歴史博物館です。設計は吉田桂二で、日本建築学会賞と公共建築賞を受けています。同じ年に鷹見泉石記念館も開きました。こちらは寛永十年(1633年)に城郭工事の余材で建てられた武家屋敷で、泉石が隠居後の晩年を過ごした家です。

竿をもみ合う祭り

古河には十二月の初めに「提灯竿もみまつり」があります。二十メートルほどの竹竿の先に提灯をつけ、相手の火を消し合う祭りです。もとは野木神社の神官が神鉾を奉じて神領の七か村をめぐる「七郷めぐり」という神事で、十二月三日に帰社する神官を提灯を持って出迎えた人々が、寒さをしのぐために身体を揉み合ったのが始まりだと伝えられます。七郷めぐり自体は建仁年間(1201〜三年)に始まったとされ、第二次大戦の直後まで続きました。廃藩置県で栃木県と茨城県に分かれたのち、古河の祭りとして独立していまに続いています。

古河藩をもっと詳しく

藩の成り立ち:藩主家がめまぐるしく替わった城

古河藩の始まりは、天正十八年(1590年)に徳川家康が関東へ移ったときです。家康は古河を重く見て、小笠原秀政を三万石で入れました。その後の藩主家は、松平康長、小笠原信之、奥平忠昌、永井直勝と、短い期間で次々に替わります。寛永十年(1633年)に土井利勝が入って、ようやく藩政の土台が固まりました。

利勝のあとも順風ではありませんでした。孫の代に跡継ぎが続かず、延宝三年(1675年)に幼い当主の土井利久が十歳で亡くなると、古河の土井家は跡継ぎのない家となってしまいます。四代将軍徳川家綱の特別の計らいで、利久の兄の土井利益が石高を減らして七万石で家を継ぎましたが、天和元年(1681年)に志摩鳥羽へ移り、のちに肥前唐津へ移りました。

土井家のあとには、春日局の養子として知られる老中堀田正俊が十三万石で入ります。しかし正俊は貞享元年(1684年)、江戸城内で若年寄の稲葉正休に刺されて亡くなり、子の正仲は出羽山形へ移されました。その後も藤井松平家、大河内松平家、本多家、松井松平家と交代が続き、宝暦十二年(1762年)に唐津から土井利里が戻って、ようやく幕末まで続く藩主家が定まりました。

本家と分家

土井利勝の四男・土井利房は、寛永二十一年(1644年)に父の遺領から下野足利郡で一万石を分けられて別家を立て、のちに越前大野藩四万石の初代となりました。幕末まで続いた大野藩の土井家は、古河の土井家と同じ利勝の流れです。

領地のようす

領地は古河城のまわりの「城付五万石」と呼ばれる百十五の村が中心でした。内訳は下総国の葛飾郡・猿島郡に二十九村、下野国の都賀郡・寒川郡・安蘇郡に七十六村、武蔵国の埼玉郡に十村です。今の茨城県古河市を中心に、栃木県・埼玉県にまたがる地域にあたります。このほか遠く離れた摂津国の平野郷(今の大阪市平野区あたり)にも領地があり、陣屋が置かれていました。一方で、財政を支える新しい産業が領内に乏しかったことが、財政難の一因になったとされます。

藩の終わりと明治以降

廃藩置県で古河県となったのち、印旛県を経て明治六年(1873年)に千葉県へ、明治八年(1875年)に茨城県へ入りました。最後の藩主土井利与は明治十七年(1884年)に子爵を授けられ、のちに宮内省の主猟官を務めています。昭和四年(1929年)に七十九歳で亡くなりました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、八万石のこの藩はおよそ千八百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「古河藩」「土井利益」「土井利与」、コトバンク「古河藩」「土井利房」

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