大胡藩の歩み
慶長十四年(1609年)十二月、「牧野康成」が死去し、子の「牧野忠成」が大胡藩主の跡を継ぎました。忠成は元和二年(1616年)七月、越後国長峰藩に五万石で移され、元和四年(1618年)三月には越後長岡藩六万石(のちに七万四千石)に加増の上、移封されました。

長峰城(長峰藩)が未完成のために直接大胡城から長岡城へ移ったという説もあります。これにより大胡藩は廃藩となり、その所領は前橋藩領として併合されました。
廃藩のあと—幕末の大胡
牧野忠成が越後へ移ったあと、大胡は前橋藩領となり、寛文九年(1669年)には城代が置かれました。ただし前橋藩そのものが数奇な運命をたどります。松平大和守家は利根川の浸食と大火のため前橋城を捨てて川越へ移り、以後九十九年にわたって前橋は藩主のいない「川越藩前橋分領」でした。
これを取り戻したのが幕末の生糸です。安政六年(1859年)の横浜開港で前橋の生糸が活況を呈し、領民の献金が前橋城の再築を支えました。文久三年(1863年)に着工、慶応三年(1867年)に完成し、松平直克が川越から帰城します。ところがその直後に大政奉還でした。せっかく築いた城が、幕府の城としてはほとんど使われなかったことになります。
一方、大胡を去った牧野家は越後長岡藩主として北越戊辰戦争を戦いました。「常在戦場」の家訓も、河井継之助も、もとをたどれば大胡から出た家のものです。大胡は城下町でこそなくなりましたが、日光裏街道沿いの宿場町、糸市の立つ在郷町として続きました。
大胡城址には、近戸曲輪・北城・本丸・二の丸・三の丸を区切る空堀が良好に残っています。前橋市街には再築された前橋城の土塁と車橋門跡が残ります。
前橋のその後—日本で最初の洋式器械製糸所
慶応三年(1867年)に城を取り戻した前橋藩に残された時間は、廃藩までわずか四年でした。ところがその短い間に、この藩は日本の近代史に残る仕事をしています。
明治三年の器械製糸
明治三年(1870年)六月、藩営の前橋製糸所が動き出しました。前橋市はこれを日本で最初の洋式器械製糸所と説明しています。中心になったのは藩士の深沢雄象と速水堅曹で、スイス人技師ミューラーの指導を受けました。官営富岡製糸場の操業開始は明治五年(1872年)ですから、前橋のほうが二年早いことになります。
横浜開港後の生糸が城の再築を支え、その生糸が今度は器械製糸の工場になった—前橋の幕末から明治への流れは、この一本の糸でつながっています。大胡の糸市に集まっていた繭や糸も、その同じ経済圏の中にありました。城下町ではなくなった在郷町が、かえって生糸の時代の恩恵を受けたわけです。
最後の前橋藩主は直克ではない
城を取り戻した藩主・松平直克は、天保十一年(1840年)に久留米藩主・有馬頼徳の五男として生まれ、文久元年(1861年)に川越藩主として家を継ぎました。文久三年(1863年)十月に政事総裁職に就き、元治元年(1864年)六月に罷免されています。幕政の中枢にいた人物です。
その直克は明治二年(1869年)八月に隠居し、最後の前橋藩知事となったのは養子の松平直方でした。安政五年(1858年)生まれで、明治二年(1869年)八月に前橋藩知事、明治四年(1871年)七月に免官となっています。前橋城を取り戻した藩主と、前橋藩をたたんだ藩主は別人だということになります。
県の名が二度変わった
廃藩置県で置かれた第一次群馬県は明治四年(1871年)十月二十八日の設置で、これが現在の群馬県民の日の由来です。ところが明治六年(1873年)六月に入間県と統合されて熊谷県となり、群馬県という名はいったん消えます。第二次群馬県が置かれたのは明治九年(1876年)で、ここから現在まで続きます。大胡は前橋藩領から前橋県・群馬県へ、熊谷県を経てまた群馬県へと、五年ほどの間に所属が何度も変わりました。川越藩の側から見れば、九十九年つづいた前橋との縁がここで完全に切れたことになります。
大胡藩をもっと詳しく
藩の成り立ち:家康の関東入国と「北の守り」
天正十八年(1590年)、小田原征伐で北条氏が滅び、徳川家康が関東に移ると、家康は配下の東三河の国衆の一人だった牧野康成(右馬允)を二万石で大胡城に入れました。これが大胡藩の始まりとされます。上野国は家康の領国の北の端にあたり、信濃・越後の方面をおさえる守りの要と考えられていました。康成はその役目を担う武将として、ここに置かれたのです。
先祖の戦国武将:牧野康成
牧野康成は、三河国牛久保(いまの愛知県豊川市)を本拠とした牧野氏の出で、武田氏との戦いや小田原征伐で手柄を立てた、いくさに強い武将として知られます。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍に加わって信濃上田城の真田昌幸を攻めましたが、このとき軍令に背いたとして蟄居(謹慎)を命じられました。蟄居がまもなく解かれたとする説と、慶長九年(1604年)に解かれたとする説があります。康成の跡を継いだ忠成が、のちの長岡藩牧野家の初代です。
大胡城のなりたち
大胡城(いまの前橋市河原浜町)は、天文年間(1532〜1555年)に築かれたとされる中世の平山城です。もとは藤原秀郷の子孫とされる豪族・大胡氏の拠点で、大胡氏は鎌倉時代の初めにはすでに有力な領主でした。天文十年(1541年)ごろには、周りの勢力に押されて江戸の牛込へ移り、牛込城を本拠としたと伝わります。
戦国時代の後半には上杉謙信がこの城を落とし、北条高広を城主に置きました。謙信の死後、跡目をめぐる御館の乱で高広は上杉景虎を支えて敗れ、天正七年(1579年)に武田勝頼に従っています。上杉・北条・武田の勢力がぶつかり合う境目の城だったことがわかります。
牧野氏が入ったあとは城の構えが広げられ、いま残る石垣などはこの時代に築かれたものとされます。元和二年(1616年)に牧野家が越後長峰へ移ると、大胡城は廃城になったとされますが、その後も前橋藩の領地として城代が置かれ、寛延二年(1749年)に城としての役目を完全に終えたとする記述もあります。本丸跡や二の丸跡が残り、群馬県指定史跡になっています。
領地のようす
大胡藩の領地は、赤城山の南のふもとに広がるおよそ五十か村ほどだったと推定されています。いまの前橋市の北東部、旧大胡町を中心とする地域です。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万石のこの藩はおよそ四百七十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。なお大胡藩があったのは元和二年までで、この規定よりも前の時代です。
参考:Wikipedia「大胡藩」「大胡城」、長岡市「長岡開府400年」の年表資料など



