長峰藩/牧野家5万石:牧野忠成 長岡藩へ加増転封のため廃藩

長峰藩 牧野家5万石 最後の藩主 牧野忠成
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長峰藩の歩み

越後を治めていた「松平忠輝」が改易された後を受けて「牧野忠成」が元和二年(1616年)七月、長峰藩へ五万石で入封しました。忠成はそれまで上野国「大胡藩」二万石を統治していたが「大坂の陣」で武功を挙げたため長峰に加増移封されたのです。

しかし長峰藩へ移る直前の元和四年(1618年)、忠成は越後「長岡藩」六万二千石に加増移封との沙汰が下されたため、忠成と牧野氏家臣団の大部分は「長峰城」を未完成のまま、大胡から直接に長岡城へ移ったとされます(ただし長岡に伝わる名簿に「長峰ヨリ長岡江御引越」とあり、長峰から移ったとする見方もあります)。

これにより、長峰領(長峰藩)は高田藩に編入されたためにわずか2年で廃藩となりました。

ここは長岡藩の前身の城です

まず場所です。長峰は越後国頸城郡長峰、いまの新潟県上越市吉川区長峰にあたります。新発田ではありません。標高三十五メートルほどの丘陵の上です。

元和二年(1616年)、上野国大胡から移ってきた牧野忠成が、大坂の陣の功で二万石から五万石となり、ここに築城を始めました。ところが元和四年(1618年)、長岡六万二千石へ加増移封となり、城は未完成のまま捨てられます。わずか二年でした。

この二年が、のちの歴史を決めています。牧野家は長岡で二百五十年続き、幕末の河井継之助と北越戦争へつながっていきました。長峰はその途中に置き去りにされた城です。

長峰村の幕末の領主は越後高田藩(榊原家)でした。この高田藩が、幕末には難しい立場に置かれます。譜代でありながら新政府軍の先鋒を務めたのです。新政府軍の本営が高田に置かれ、薩摩・長州・加賀の兵が集結しました。慶応四年閏四月二十一日、海道軍と山道軍に分かれて出発しています。

旧幕府軍の古屋隊が越後に入ったとき、高田藩は一度領内の通行を許して新政府から疑われ、四月二十六日に古屋隊を撃退して忠誠を示しました。領民の負担は凄まじく、藩内全体で人足六十五万人近く、馬四万五千匹あまりを出しています。

長峰城址には大規模な土塁が残り、南側の土塁では版築の様子がよく分かるとされます。未完成のまま捨てられたおかげで、築いている途中の姿がそのまま残ったわけです。北側の長峰池は県の景勝百選に選ばれています。

高田藩が負った三つの重荷

長峰村を治めていた越後高田藩は、戊辰戦争で三つの重荷を背負いました。新政府軍の先鋒という役目のほかに、あまり知られていない負担がのしかかったのです。

一つめ—藩は官軍、家臣は賊軍

江戸に詰めていた藩士八十六人が脱藩し、彰義隊に加わりました。うち二十一人が戦死しています。国元の藩は新政府軍の先鋒として越後を進み、江戸の家臣は上野で幕府方として戦って死ぬ。譜代の藩が引き裂かれた形が、ここにはっきり出ています。この一隊は神木隊と呼ばれました。

二つめ—領民の供出

新政府軍の本営が高田に置かれたため、軍勢の移動と兵糧の輸送はこの土地が引き受けることになりました。記録では人足六十五万人、馬四万五千匹が供出されています。北越戦争の激しさは長岡の側から語られることが多いのですが、後方の高田も別の形で消耗していました。長峰のような在方の村にも、人と馬の割り当てが回ってきたはずです。

三つめ—会津降伏人千七百四十二人

戦いが終わったあと、高田藩には会津の降伏人千七百四十二人が預けられました。明治二年(1869年)一月十七日から二十七日にかけて受け入れ、六隊に分けて寺町の五十五か寺に収容しています。彼らがここで暮らしたのは明治三年(1870年)六月までのおよそ一年半で、この間に六十七人が病死し、のちに斗南藩へ引き渡されました。敗れた側の人々を抱えるという最後の重荷まで、高田藩は負ったことになります。

なお高田藩の藩校である脩道館の開設は慶応二年(1866年)で、全国の藩校のなかでもかなり遅い時期です。学問の備えが整う間もなく戊辰を迎えたことになります。高田城跡は昭和二十九年(1954年)二月十日に新潟県の史跡に指定されました。未完成のまま捨てられて土塁だけが残った長峰と、二百五十年使われて幕末の重荷を全部受け止めた高田。同じ頸城の丘と平野に、対になる二つの城跡があります。長岡藩へ移った牧野家の側から見れば、長峰は通り過ぎた場所にすぎませんが、高田はずっと隣にいた藩でした。

常在戦場の家の越後第一歩—牧野忠成と長峰城

牛久保の壁書「常在戦場」

長峰藩の牧野家は、三河牛久保城主の家筋です。家訓「牛久保の壁書」十八か条の第一条が「常在戦場」で、この言葉はのちに長岡藩の藩風として受け継がれました。牧野忠成は慶長十四年(1609年)に上野大胡の城主となり、大坂夏の陣の戦功で、元和二年(1616年)に越後長峰へ五万石で移りました。家格は譜代、江戸城では帝鑑間に詰めました。同じ年、牧野家の旧家臣だった稲垣家も越後藤井に入っています(藤井藩)。

中世の城を近世の城に

長峰城(いまの上越市吉川区)は、もとは中世の那須氏の居城でした。忠成はその跡に城と城下町を築き直しています。昭和六十年(1985年)に「元禄九年長峰村古図」が見つかり、四角い土塁に囲まれた「古城」区画は城の一部にすぎず、実際は二重の空堀、四基の櫓、望楼を備えた大きな近世城郭だったとわかりました。長峰池や周りの湿地が水堀の役目を果たしていたとされます。

池の船着き場

古図などから、城の裏門から長峰池に突き出た岬「さんばヶ鼻」の付け根に道が続き、船着き場があったと推定されています。城は池と湿地に守られ、舟で行き来できる水の城でもあったのです。明治に土塁の大部分が崩され、池や湿地は田んぼになりました。

長峰から長岡へ

元和四年(1618年)、忠成は長岡へ移り、堀直寄の代から続いていた長岡城の工事を仕上げました。長岡に伝わる引っ越し名簿には「元和四年長峰ヨリ長岡江御引越御人数」とあり、家臣たちが長峰から長岡へ移ったことがわかります。次男の牧野康成(のちの与板藩祖)も長峰で生まれました。「常在戦場」の長岡藩の歴史は、わずか二年の長峰城から始まったのです。

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