白井藩/本多家1万石:本多紀貞 幕末前に嗣子がなくお家は断絶し廃藩

【藩名】
白井藩

【説明】
「西尾忠永」が2万石で白井藩へ入封します。しかし、元和4年(1618年)に常陸国土浦藩へ移封となりました。その後を受けて「本多康重」の次男「本多紀貞」が1万石で入封します。元和9年(1623年)、紀貞は嗣子なくして死去したため、無嗣断絶の上白井藩は廃藩となりました。ほどなく「白井城」は破却され、その所領は旗本領として分割されました。

目次

城は壊され、領地は分割されました

白井藩の藩庁は白井城——現在の群馬県渋川市白井です。天正十八年(一五九〇年)から元和九年(一六二三年)まで、三十三年ほど続きました。

藩主はめまぐるしく替わっています。

  • 本多康重(一五九〇〜一六〇一)二万石——のち岡崎藩へ
  • 松平康長(一六〇一〜一六〇二)二万石——白井城が火災に遭い古河藩へ
  • 井伊直孝(一六一〇)吾妻郡で五千石を加増され一万石
  • 西尾忠永(一六一六〜一六一八)二万石——原市藩から入り、土浦藩
  • 本多紀貞(一六一八〜一六二三)一万石——跡継ぎがなく死去し、廃藩

そのあとの白井

廃藩後、旧白井藩領は幕府領と旗本領に分割されました。そして白井城は破却されています。

幕末に至るまで、この状態が続きました。城が壊されて領地が細かく分けられた土地には、まとまった歴史が残りにくい——白井はその一例です。

幕末の白井村は、幕府領でした

旧高旧領取調帳をもとにしたデータで見ると、幕末の上野国群馬郡白井村は幕府領と社寺領で、石高は千二十四石余です。廃藩のあと旗本領に分けられたと説明されることがありますが、幕末の時点では旗本領ではなく幕領でした。群馬県域の幕府領は岩鼻の代官所が扱っています。なお土浦藩へ移った西尾忠永のあとを受けて入ったのが本多紀貞で、その紀貞が元和九年に嗣子なく亡くなったことで藩は消えました。

白井宿は、三国街道の宿場ではありません

ここは間違えやすいところです。三国街道の上野国内の宿場は、高崎・金古・渋川・金井・北牧・横堀・中山・塚原・下新田・今宿・布施・須川・相俣・猿ヶ京・永井と並びますが、白井はそこに入っていません。白井宿は白井城の城下町で、城が壊されたあとは沼田・三国・草津の道が集まる市場町として残った町です。いまも九百メートルほどの家並みのなかを八百二十メートルの白井堰が流れ、両側に道が走り、つるべ井戸が八か所残っています。堰の両脇の八重桜は約百本で、四月下旬から五月上旬が見ごろです。

城跡と、町なかの二つの史跡

白井城址は平成十六年三月三十一日に渋川市の史跡に指定されました。曲輪、土塁、空堀、櫓台、枡形虎口が残り、本丸と二の丸のあいだの深い堀切は三日月堀と呼ばれています。碑と説明板もあります。町なかには嘉永二年に建てられた「白井町の道しるべ」があり、こちらは昭和六十一年五月六日の市指定史跡です。北へ進めば沼田藩の城下へ出る、という道しるべでした。源空寺には本多氏の墓があり、昭和五十八年六月二十七日に指定されています。

本多紀貞の家は、信濃飯山で幕末を迎えました

紀貞の父・本多康重の系統は、白井から岡崎藩、遠江横須賀を経て、最後は信濃の飯山藩二万石として幕末に至ります。幕末の当主は本多助実で、安政五年から慶応三年まで藩主を務め、いったん子に譲ったあと、明治二年にふたたび知藩事として戻りました。

【場所・アクセス・地図】

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