陸奥宗光 宛
| 原文 |
| 一、さしあげんと申た脇ざしハ、まだ大坂の使がかへり不申故、わかり不申。一、御もたせの短刀は─さしあげんと申た─私のよりは、よ程よろしく候。─但し中心(なかご)の銘及形。─是ハまさしくたしかなるものなり。然るに大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候。一、小弟の長脇ざし御らん被成度とのこと、ごらんニ入レ候。十三日謹言。陸奥老台自然堂拝 |
| 現代文 |
| 一、差し上げると言った脇差は、まだ大阪の便が帰ってこないのでわからない。一、持たせた短刀(差し上げると話した)は私のものよりはるかに良いものです。ただし、茎(なかご:刀身の柄に被われる部分)の銘は型に及ぶものです。これはまさしく確かなものです。けれど、大阪から刀研ぎが帰ってきたら見せて下さい。一、私の長い脇差をご覧になりたいとのことなのでご覧に入れます。13日陸奥老台(陸奥宗光)自然堂(龍馬変名) |
この手紙について
これは、刀剣のやり取りをめぐる龍馬から陸奥宗光へのごく私的な短信です。差し上げると約束した脇差が大坂の使いの帰りを待って確認できないこと、預けた短刀が自分のものよりよほど良い品であること、求めに応じて自分の長脇差を見せること――といった、刀好きの武士同士のこまやかな心づかいがつづられています。末尾の「自然堂(じねんどう)」は龍馬が用いた変名のひとつ。日付は「十三日」とあるだけで年は記されておらず、正確な執筆年は特定できませんが、龍馬と陸奥が海援隊(その前身の亀山社中)で行動を共にした慶応年間(一八六六〜六七年)のものと考えられています。
宛先「陸奥宗光」とはどんな人物か
陸奥宗光(むつ むねみつ)は、紀州(和歌山)出身の武士で、勝海舟の神戸海軍操練所を経て龍馬の亀山社中・海援隊に加わった腹心です。実務と交渉にずば抜けた才を持ち、龍馬もその能力を高く買っていました。いろは丸沈没事件(慶応三年)では紀州藩との賠償交渉で辣腕をふるっています。龍馬の死後は明治政府で頭角をあらわし、外務大臣として不平等条約の改正(治外法権の撤廃)を成し遂げ、「カミソリ大臣」と称された近代日本外交の立役者となりました。この何気ない刀の手紙は、そんな二人の気の置けない関係をよく伝えています。
この手紙が書かれたころの龍馬の境遇
慶応年間の龍馬は、長崎を拠点に亀山社中・海援隊を率い、船で物資や武器を運びながら、京都・大坂・下関を飛び回る多忙な日々を送っていました。脱藩浪士の身でありながら、薩摩藩や長州藩、そして本国の土佐藩をつなぐ独自の立場を築きつつあった時期です。刀剣を贈り合うこうしたやり取りも、そうした人脈づくりと信頼関係の一場面だったといえるでしょう。
幕末全体の動き(慶応年間)
この手紙が書かれたとみられる慶応二〜三年(一八六六〜六七年)は、幕末がいよいよ最終局面へ突き進む激動の時期でした。慶応二年には龍馬らの仲介で薩長同盟が結ばれ、倒幕へ向かう流れが一気に強まります。翌慶応三年には十五代将軍徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する大政奉還が実現し、龍馬自身もその直後の十一月に京都・近江屋で暗殺されました。刀をやり取りするのどかな日常のすぐ隣で、時代は音を立てて動いていたのです。
土佐藩の当時の動き
龍馬の生国・土佐藩では、参政の後藤象二郎や前藩主・山内容堂を中心に、武力ではなく話し合いで政権を移す「公議政体論」が模索されていました。龍馬が示したとされる「船中八策」の構想は後藤を通じて藩論となり、土佐藩が主導した大政奉還の建白へと結実します。脱藩の罪人だった龍馬が、皮肉にも本国土佐を動かして無血の政権交代を演出しようとしていた――それがこの手紙の時代の土佐藩でした。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

