【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩く—高知の邸跡と道場跡、南会所の殉節之地、奈半利川の二十三士

「武市瑞山先生殉節之地」の碑(高知市帯屋町、土佐藩南会所跡)

武市半平太(瑞山)は、土佐勤王党を率いた人です。坂本龍馬の遠い親戚にあたり、龍馬が「アギ(あご)」とからかったという逸話でも知られます。高知の町を歩くと、この人の名を刻んだ石がいくつも見つかります。住まいと道場の跡、最期を迎えた牢の跡、そして武市を救おうと立ち上がり、奈半利川の河原で斬られた二十三人の碑です。現地の写真と説明板の文をもとに、順にたどってみます。

目次

新町田淵の邸跡と道場跡

高知市の街なかの植え込みに、赤みがかった自然石の碑があり、「武市半平太邸跡」と彫られています。

「武市半平太邸跡」と彫られた自然石の碑
「武市半平太邸跡」の碑(高知市)

脇に立つ高知市教育委員会の説明板「武市半平太邸跡及び道場跡」(平成五年七月)によると、半平太は嘉永三年(1850年)、長岡郡吹井村(いまの高知市)から祖母と妻の富とともに城下の新町田淵へ移り住みました。安政二年(1855年)の春には、間口六間・奥行四間(約十一メートル×七・三メートル)の道場を建てています。

道場では、午前は妻の叔父にあたる島村寿之助が槍術を、午後は半平太が剣術を教えました。門人は百二十人ほど。そのなかには中岡慎太郎、岡田以蔵、久松喜代馬、五十嵐文吉ら、のちに勤王運動に加わった人も多く、坂本龍馬もよく出入りしていたといわれます。土佐勤王党の顔ぶれは、この道場から育ったともいえます。

武市半平太邸跡の碑と、高知市教育委員会の説明板
説明板「武市半平太邸跡及び道場跡」。実際の邸と道場は、ここから約三十メートル東の道の北側にあったと推定されています

説明板によると、この碑はもともと通りの北側に置かれていたもので、実際に邸と道場があったのは、ここから約三十メートル東の道路北側あたりと推定されるそうです。碑の場所と史跡の場所が少しずれている点は、訪ねるときに覚えておくとよいでしょう。

土佐勤王党の結成と、吉田東洋の暗殺

文久元年(1861年)八月、半平太は江戸の土佐藩邸で土佐勤王党を結成し、帰国して同志を集めました。加盟者は百九十人あまり。ほとんどが郷士や庄屋など、下級の武士や村役人の層です。土佐の上士と郷士の身分の差については、【現地取材】岡豊城跡を歩くに詳しく書きました。

翌文久二年四月、藩政を握っていた参政の吉田東洋が、勤王党の那須信吾らによって暗殺されます。勤王党は一時、藩の方針を動かすほどの力を持ちましたが、文久三年八月の政変で京都の情勢が変わると、前藩主の山内容堂が厳しい取り締まりに乗り出しました。

南会所の殉節之地—獄中の一年八か月

高知市帯屋町の商店街の一角、ビルの壁ぎわに「武市瑞山先生殉節之地」と刻んだ石柱が立っています。ここは土佐藩の南会所があった場所です。

「武市瑞山先生殉節之地」の石柱と、両脇の碑文
「武市瑞山先生殉節之地」の碑(高知市帯屋町)。両脇の石に、瑞山の生涯と最期が刻まれています

高知市の観光案内によると、半平太は文久三年九月二十一日、同志とともにこの地の揚屋(武士を入れる牢)に入れられました。碑は昭和二十八年(1953年)、高知市教育委員会と帯屋町の公設市場組合が建てたものです。右の碑には、通称は半平太、号は瑞山、文政十二年(1829年)九月に長岡郡吹井村に生まれ、生まれつき優れた人柄で一世に名高かった、といった経歴が刻まれていました。

獄中の半平太は、牢番たちに慕われ、そのはからいで同志とひそかに手紙をやりとりできたといいます。紙や筆、墨を手に入れて、自分の姿を描いた自画像も残しました。しかし仲間への拷問は続き、岡田以蔵らの自白もあって、慶応元年(1865年)閏五月十一日、半平太は切腹を命じられます。三十七歳でした。作法どおり腹を三度切る「三文字割腹」を遂げたと伝えられています。

吹井の旧宅と「花は清香に依って愛せられ」の詩

「武市半平太先生」の像と、瑞山の詩を刻んだ台座
高知市仁井田の武市半平太旧宅の裏手に立つ「武市半平太先生」の像。台座には瑞山の詩が刻まれています

高知市仁井田の武市半平太旧宅(国の史跡)の裏手には、「武市半平太先生」の像が立っています。須崎市の横浪半島にある高さ約三メートルの銅像に比べるとずっと小ぶりで、羽織袴に刀を手にした、穏やかな顔立ちの像でした。台座には瑞山の詩が刻まれています。

花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明

読み下すと「花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ。幽囚何ぞ恥ずべき、只赤心の明らかなる有り」。花は清らかな香りで愛され、人は仁義によって栄える。牢につながれていても恥じることはない、ただ偽りのない心があるだけだ—獄中の思いを詠んだ詩として知られています。

野根山二十三士—武市を救おうとした人々

半平太が牢にいるあいだに、土佐の東の端で、ひとつの事件が起きています。元治元年(1864年)七月二十六日、安芸郡田野の郷士・清岡道之助ら二十三人が、野根山街道の岩佐の番所に武器を持って集まりました。武市の釈放と藩政の改革を藩に訴え、聞き入れられなければ国境を越えて京都へ向かうつもりだったといいます。京都では、ちょうど禁門の変が起きたばかりでした。

藩はこれを反乱とみなし、兵を差し向けます。一行は戦わずに阿波(徳島)へ逃れましたが、海路での脱出に失敗し、阿波藩によって土佐へ引き渡されました。そして九月五日、取り調べもないまま、奈半利川の河原で全員が斬首されます。最年少は十六歳だったと伝えられます。

「二十三士殉節之地」の碑
「二十三士殉節之地」の碑(高知県安芸郡田野町)。高い石の台座の上に立っています

処刑の地には、高い台座の上に「二十三士殉節之地」の碑が立っています。高知県立坂本龍馬記念館の案内によると、昭和五年(1930年)、昭和天皇の即位の大典を記念して町の青年団が建てたもので、文字はこの地方の出身である浜口雄幸の揮毫です。河原の刑場跡は、いま二十三士公園になっています。

菜の花の咲く奈半利川の河川敷
二十三士公園のあたり、菜の花の咲く奈半利川の河川敷。奥は奈半利川にかかる鉄橋です

武市半平太が切腹したのは、この事件から九か月ほどのちのことです。二十三人が命をかけて求めた武市の釈放は、かないませんでした。

歩いてみて

邸跡の碑も殉節之地の碑も、いまは街の植え込みやビルの壁ぎわにひっそりと立っていて、知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所です。殉節之地の碑の前には、いまも花や枝が供えられています。いっぽう奈半利川の二十三士の碑は、空の広い川べりに高く立ち、遠くからでもよく見えます。同じ党の人たちを記念する碑なのに、町なかと川べりで、ずいぶん違う表情をしていました。

場所・アクセス・地図

高知市内の三か所(邸跡・殉節の地・旧宅)は車なら半日で回れます。田野町の二十三士公園は高知市から東へ車で約1時間半です。邸跡と殉節の地には駐車場がないので、路面電車で行くのが便利です。

武市半平太邸跡及び道場跡

  • 所在地:高知市桜井町1-2-32
  • 電車:とさでん交通の路面電車「菜園場(さえんば)」電停から徒歩約3分。JR高知駅から徒歩約15分
  • 駐車場:なし。見学は自由(無料)

武市瑞山殉節の地(土佐藩南会所跡)

  • 所在地:高知市帯屋町2-5-18(帯屋町商店街の中)
  • 電車:とさでん交通の路面電車「大橋通」電停から徒歩約2分
  • 駐車場:なし。高知城からも歩いて行ける距離です

武市半平太旧宅及び墓・瑞山神社(国の史跡)

  • 所在地:高知市仁井田(旧吹井村)。像は旧宅の裏手にあります
  • バス:とさでん交通バス「瑞山神社前」下車、徒歩約5分
  • 車:数台分の小さな駐車スペースがあります
  • 注意:旧宅は個人の住まいで、建物の中は公開されていません。外から静かに見学しましょう。墓は瑞山神社の上の丘にあり、妻・富子の墓と並んでいます

二十三士殉節の地(二十三士公園)

  • 所在地:高知県安芸郡田野町。奈半利川の西岸、国道55号沿い
  • 電車:土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線「奈半利」駅から徒歩約12分
  • 駐車場:あり。公園には東屋や遊具もあります
  • 見ごろ:春は桜と菜の花が咲き、花見の人でにぎわいます

高知城や龍馬の生まれたまち、武市半平太旧宅などをめぐる旅程は、姉妹サイト「歴史旅ガイド」の幕末土佐の歴史旅モデルコース(大阪発・車1泊2日)にまとめています。

あわせて読みたい

参考資料:現地の説明板(高知市教育委員会「武市半平太邸跡及び道場跡」1993年)と碑文、高知市観光情報「武市瑞山殉節の地」、高知県観光情報「こうち旅ネット」(各史跡のアクセス)、東部観光協議会「二十三士公園」、高知県立坂本龍馬記念館「武市瑞山(半平太)旧邸・墓」、高知市「史跡 武市半平太旧宅及び墓」、高知県立坂本龍馬記念館「野根山二十三士殉節地」、Wikipedia日本語版「清岡道之助」ほか。年齢は数え年です。

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