吉井藩(矢田藩)/松平家1万石:吉井信謹 幕末時に新政府側の立場を取り松平姓を捨て吉井姓に改めた吉井藩

吉井藩(矢田藩) 松平家1万石 最後の藩主 吉井信謹
目次

吉井藩(矢田藩)の歩み

九代藩主の松平信発は、安政六年(1859年)、前水戸藩主・徳川斉昭に永蟄居の命を伝える幕府の使者を務め、その功で多くの恩賞を受けました。藩政では、農民を兵に取り立てる軍制の改革も行っています。最後の藩主・松平信謹は、慶応四年(1868年)二月二十二日、徳川家と縁を切ることを示すため、松平の姓を捨てて吉井と改めました。その後の戊辰戦争では新政府の側につき、信濃の戸倉に兵を出しています。

明治二年(1869年)の「版籍奉還」では上野国の諸藩に先駆けて行い、信謹は吉井藩知事となります。同年十二月、信謹は藩知事を辞して吉井藩は廃藩となりました。その後、吉井の地は岩鼻県、群馬県、熊谷県を経て、最終的に群馬県に編入されました。

上州吉井の小藩

吉井藩は、上野国(現在の群馬県高崎市吉井)に置かれた一万石の小藩で、藩主は松平家、陣屋を構える大名でした。この松平家は名門・鷹司家の血を引く由緒を持つ家柄で、上州の一角を治めていました。

松平姓を捨てて吉井姓へ

幕末維新の転換期、吉井藩は新政府側の立場をとり、徳川ゆかりの「松平」の姓を捨てて「吉井」姓へと改めました。旧幕府との関係を断ち、新しい時代への姿勢を名乗りによって示したのです。小藩ならではの身の処し方が、その改姓によく表れています。

松平の姓を、自分から捨てました

最後の藩主・吉井信謹が松平姓を捨てて吉井姓に改めたのは慶応四年二月二十二日で、徳川家と縁を切る意思を形にしたものでした。同じ二月のうちに重臣を上洛させて新政府に恭順を示し、三月には兵糧などを献じています。誰の許可を得ての改姓なのか、同じことをした藩が他にあるのかはわかっていません。版籍奉還は上野国の諸藩に先駆けて行い、明治二年六月に藩知事となっています。

天狗党とは、戦っていません

元治元年十一月の下仁田戦争では、天狗党が吉井藩の役人に戦う意思のないことを伝え、吉井藩の役人は通過を見守るだけだったとされます。総勢九百二十余名の天狗党の乱に対して実際に戦ったのは高崎藩で、死者三十六名、負傷者十一名を出しました。一方、三国峠の戦いには吉井藩も加わっており、閏四月二十三日に佐野藩と合わせて百八十名が谷側から攻め上がって、吉井藩兵として戦った多比良村出身の農民・吉田善吉(27歳)が大般若塚で戦死しました。藩はその日のうちに善吉を士分に取り立て、遺族に扶持やほうびを与えています。この戦いの経過は沼田藩のページにも書きました。

廃藩置県より一年七か月早く、自分から藩をたたみました

明治二年十二月、信謹は藩知事を辞し、吉井藩は廃されて岩鼻県に編入されました。廃藩置県の明治四年七月より一年七か月も早い、自主的な廃藩です。辞職の理由はわかっておらず、日付も十二月二十五日とする資料と二十六日とする資料があります。陣屋の跡は吉井小学校になり、春日神社跡に土塁が残ります。陣屋の表門は廃藩後に売られて東深沢の新井家へ移築されていましたが、昭和四十五年に寄贈されて現在地に復元され、高崎市の重要文化財に指定されました。鬼瓦には丸に葉牡丹の紋が入っています。

この藩がなぜ廃藩置県を待たずに消えたのか、制度の側から見た事情は廃藩置県より前に、自分から消えた藩がありましたにまとめました。

公家から武家へ—鷹司松平家の始まり

吉井藩の松平家は、「鷹司松平家」と呼ばれる珍しい家です。祖の松平信平は、朝廷で最も格の高い五摂家の一つ・鷹司家の生まれで、関白・鷹司信房の子でした。信平の姉・孝子は三代将軍家光の正室(御台所)となっていて、その縁で信平は江戸へ下り、武家として生きる道を選びます。紀州藩主・徳川頼宣の娘を妻に迎え、のちに松平の姓を許されて旗本となりました。公家の家に生まれた人が、将軍の義弟として武家になったのです。

信平の子孫は宝永六年(1709)に一万石の大名となり、上野の矢田(のちの吉井)に陣屋を置きました。家格は高く、小藩ながら公家の血筋を誇る家として扱われています。

「松平」を捨て、藩も自ら返した最後の殿様

幕末の慶応四年(1868)、最後の藩主・信謹は松平の姓を捨てて吉井姓に改め、徳川家との縁を切りました。将軍の義弟として松平の名を与えられた家が、二百年あまり後にその名を自ら手放したことになります。さらに明治二年(1869)十二月には、廃藩置県を待たずに藩知事を辞し、藩を新政府に返しています。同じように自ら廃藩を願い出た藩には、河内の狭山藩などがあり、こうした「自主廃藩」の動きについては特集記事にまとめています。

小栗上野介を追った三藩の一つ

小栗追捕の命令

慶応4年(1868)閏4月、東山道総督府は高崎藩・安中藩・吉井藩の3藩に小栗上野介の追捕を命じました。命令先の一つが「吉井鉄丸」です。3藩は兵を権田村へ出し、小栗はその後、総督府の原保太郎の指揮で処刑されました(小栗上野介終焉の地・水沼河原)。

大広間の鷹司松平家

江戸城の殿席は大広間とする資料と大廊下とする資料があり、歴代当主は従四位下・侍従になるのが慣例でした。藩主は定府で、慶応年間の家臣104人のうち江戸詰が88人、国元は代官2人など16人だったといわれます。藩祖の信平は慶安3年(1650)、15歳のとき家臣一人だけを連れて江戸へ下った公家の出で、時代小説『公家武者 信平』のモデルとしても知られます。

矢田から吉井へ

陣屋は木部村・矢田村の間で何度か動き、宝暦2年(1752)に吉井村へ移しましたが呼び名は「矢田陣屋」のままで、元治元年(1864)に正式に「吉井陣屋」となったとされます。吉井は下仁田道沿いの陣屋町で、2と8の日に六斎市が立ち、絹などが取引されました。領内には国の特別史跡・多胡碑があります。最後の藩主・信謹は米沢藩主上杉斉憲の五男です。

考察:江戸住まいの藩が担った重い役目

国元に16人しかいない定府の小藩が、幕府の重臣だった小栗の追捕を命じられたのです。吉井藩の兵がどんな思いで権田村へ向かったのかは記録からはわかりません。大河ドラマで小栗が注目される今、追う側にいた小藩にも目を向けてみたいと思います。

吉井藩をもっと詳しく

吉井にあった、ほかの二つの藩

吉井に藩が置かれたのは、鷹司松平家が最初ではありません。天正18年(1590年)、関東に入った徳川家康は、菅沼定利に上野国多胡郡などで2万石を与えました。定利は吉井に城を築き、矢田村などから人を移して町割りを行います。天正20年(1592年)には検地を行い、六斎市を開きました。慶長5年(1600年)には菩提寺として玄太寺を建て、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に加わって真田昌幸と戦っています。

定利が慶長7年(1602年)に亡くなると、跡を継いだのは養子の忠政でした。忠政は家康の娘・亀姫の子で、のちに美濃の加納藩へ移ったため、吉井の藩はいったんなくなり、城も廃されます。その後、天和2年(1682年)に堀田正休が1万石で吉井に入って藩が再び置かれましたが、元禄11年(1698年)に正休が近江宮川藩へ移り、また幕府領と旗本領に戻りました。

旗本から大名へ

鷹司松平家の信平が松平の姓を名乗ったのは承応3年(1654年)3月10日です。延宝2年(1674年)には上野と上総で7,000石の領地を与えられ、はじめ木部村(いまの高崎市木部町)に陣屋を置きました。陣屋は延宝7年(1679年)に矢田村へ、貞享3年(1686年)に木部村へ、元禄元年(1688年)に再び矢田村へと動いています。宝永6年(1709年)4月6日、信平の孫・信清が3,000石を加えられて1万石となり、大名の仲間入りをしました。

倹約令と、揺れた宿場町

藩の財政が苦しくなったのは5代信成のころからです。信成は寛政9年(1797年)に倹約令を出しましたが、効き目はありませんでした。7代信敬も倹約を中心とした改革に取り組みましたが、やはり大きな成果は上がっていません。

下仁田街道の宿場でもあった吉井には、元治元年(1864年)に天狗党が通りました。さらに、信謹が松平から吉井へ姓を改めた慶応4年(1868年)2月22日その日に、領内で大規模な世直し一揆が起こります。翌日には吉井宿が打ち壊され、一揆勢は陣屋を囲む寸前まで迫りました。藩は要求をすべて受け入れて、ようやく引き揚げさせています。

吉良上野介の子孫だった最後の藩主

最後の藩主・信謹は嘉永6年(1853年)、米沢藩主・上杉斉憲の子として生まれました。上杉家は、吉良義央(上野介)の子・綱憲が継いだ家です。信謹は義央から男系でつながる子孫にあたり、母方では鷹司家の血も引いていました。万延元年(1860年)に信発の養子となり、元治2年(1865年)3月26日に家督を継いでいます。

藩をたたんだあとの明治12年(1879年)、信謹は満3歳の長男・信宝に家督を譲って吉井家を離れ、実家の上杉家に戻りました。明治41年(1908年)に56歳で亡くなり、墓は米沢の林泉寺にあります。次男の信照が持っていた当時最新のカメラで撮られた信謹の写真が、吉井郷土資料館に残されています。

郷代官が書いた『多胡旧記』

吉井の歴史を伝える史料に、吉井藩の郷代官を務めた橳島高堅が書いた『多胡旧記』があります。天正18年に菅沼定利が吉井に入って宿場町をつくったところから書き起こし、明和9年(1772年)の江戸の大火で結ばれています。原本は高崎市の指定文化財です。

また、旧藩主家に伝わった掛け軸・書籍・手紙など350点は、『吉井町誌』をまとめる際に吉井町へ寄贈され、いまは吉井郷土資料館に収められています。「吉井藩主家資料」として高崎市の指定重要文化財です。

動員できた兵の目安

慶安2年(1649年)に定められた軍役の規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっていました。1万石の吉井藩なら235人、十人単位に丸めて240人ほどが目安です。この規定は案のまま発布されなかったという説もあります。慶応年間の家臣が104人だったことを考えると、目安の半分にも届かない規模でした。小栗上野介の追捕をともに命じられた安中藩は2万石で、目安は470人ほどです。

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