鶴ヶ岡城(大宝寺城):戊辰戦争では新政府軍に連戦連勝した庄内藩の居城 鶴ヶ岡城【お城特集 日本の歴史】

鶴ヶ岡城(大宝寺城)

目次

鶴ヶ岡城(大宝寺城)について

鶴ヶ岡城は山形県鶴岡市馬場町にあった庄内藩十七万石の城です。
鎌倉時代に鶴ヶ岡城の前進となる大宝寺城が武藤氏(大宝寺氏)によって築かれました。

鶴ヶ岡城/アクセス・場所・地図 戊辰戦争では新政府軍に連戦連勝した庄内藩(譜代大名酒井氏)の居城 鶴ヶ岡城【お城特集 日本の歴史】

室町時代に入ると「武藤長盛」が庄内地方に勢力を張り、戦国時代になると一度は大宝寺城を失うも越後の上杉氏と組んで庄内地方の統一を果たしました。「武藤義氏」の時代になるとその勢力は最高潮に達したが、天正十一年(1583年)最上義光の謀略により家臣に自刃に追い込まれてしまいます。

その後、庄内地方は上杉景勝と最上義光の争奪戦が繰り広げられたが、天正十六年(1588年)上杉景勝によりあっけなく併呑されました。慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると上杉景勝は米沢三十万石へ減封の上、転封となり、庄内地方は最上義光へ与えられました。

鶴ヶ岡城/アクセス・場所・地図 戊辰戦争では新政府軍に連戦連勝した庄内藩(譜代大名酒井氏)の居城 鶴ヶ岡城【お城特集 日本の歴史】

義光は領内を整備し、城を拡張し、この時「大宝寺城」は「鶴ヶ岡城」へと改名されました。元和八年(1622年)、「最上義俊」の代にお家騒動(最上騒動)が起こり最上家は改易されてしまいます。以降、最上領は分領され鶴ヶ岡城には松代城から徳川譜代大名の「酒井忠勝」が入封します。

忠勝は鶴ヶ岡城を近世城郭へと整備し城下町の発展にも努めました。江戸期を通じて酒井氏がこの地を治め酒田湊を利用した貿易などで庄内藩の財政は潤いました。幕末になると庄内藩は江戸の街の取り締まり役を命じられ、「新徴組」を結成し薩摩藩に雇われた浪士を厳しく取り締まりました。そしてついに薩摩藩邸焼き打ちという挙に討って出ます。

戊辰戦争が東北にまで及ぶと奥羽越列藩同盟に加わり各地へ転戦しました。長岡藩、会津藩が降伏し、米沢藩も新政府軍に降ると庄内藩は孤立するが最後まで戦い続けました。

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酒田港を利用して購入した最新鋭の武器で武装した庄内藩は国境付近で連戦連勝していたが、最後は西郷隆盛の寛大な処置を受け入れ降伏・開城しました。明治四年(1871年)廃藩置県により鶴ヶ岡城は廃城となり、明治九年(1876年)には城内の建物は全て破却され「鶴岡公園」となりました。

本丸に建つ荘内神社と藩校・致道館

鶴ヶ岡城の本丸跡には、いま荘内神社が建っています。明治十年(1877)、旧藩主の酒井家の歴代を祀るため、領民の願いによって創建された神社です。城跡一帯は鶴岡公園となり、堀と土塁の一部が城の輪郭を伝えています。

公園のすぐ東には、庄内藩の藩校・致道館が残ります。文化二年(1805)に開かれ、のちにいまの地に移された藩校で、聖廟や講堂などの建物が現存し、国の史跡に指定されています。生徒の個性を伸ばすことを重んじた教育で知られました。

降伏の後—西郷隆盛と『南洲翁遺訓』

戊辰戦争の庄内藩は、領内に攻め込んだ新政府軍を各地で退けながら、同盟諸藩が次々に降伏したため、明治元年(1868)九月に藩主・酒井忠篤のもとで降伏しました。このときの新政府側の処置は意外なほど寛大なもので、その背後には西郷隆盛の意向があったと伝えられます。

恩義を感じた庄内の旧藩士たちは、のちに鹿児島の西郷のもとを訪ねて教えを受け、その言葉をまとめて明治二十三年(1890)に『南洲翁遺訓』として刊行しました。西郷の言葉を伝えるもっとも有名な本は、鹿児島ではなく、かつて薩摩と戦った庄内でつくられたものでした。

三方領知替えを止めた領民

天保の国替え 天保十一年(1840)、幕府は庄内藩の酒井家を越後の長岡へ、長岡の牧野家を武蔵の川越へ、川越の松平家を庄内へ移すよう命じました。三つの藩を入れ替える「三方領知替え」です。豊かな庄内への移封を望んだ川越藩の働きかけによるものでした。

領民の反対 ところが、庄内の農民たちは酒井家が去ることに強く反対し、江戸に出て幕府の役人や諸大名に訴えました。その運動は大きな広がりを見せ、翌年、幕府はついに国替えを取りやめます。領民の反対で幕府の命令が撤回されるのは異例のことでした。こうして酒井家は幕末まで庄内にとどまり、戊辰戦争でも領民とともに戦うことになります。

鶴ヶ岡城の構造と、庄内藩の幕末

大宝寺城から鶴ヶ岡城へ

天文元年(1532年)、大宝寺城は砂越氏維に焼かれ、当主の大宝寺晴時は尾浦城へ本拠を移しました。慶長八年(1603年)になって、最上義光がこの城を「鶴ヶ岡城」と改めています。

天守のない、三重の堀の平城

鶴ヶ岡城は、三重の堀をめぐらせた平城です。本丸は幅約二十メートルの水堀に囲まれていました。石垣は主な部分にだけ使い、大半は土塁で築かれていました。天守は建てられず、本丸の御殿と二重櫓が、その代わりの役目を果たしていました。三の丸の跡には、いま致道博物館があります。

13万8000石から17万石の格へ

元和八年(1622年)に入った酒井忠勝の石高は、13万8000石でした。天保十一年(1840年)には長岡への国替えを命じられましたが、領民の反対運動(天保義民事件)によって取り下げられています。元治元年(1864年)には、江戸市中取締の働きを認められて、十七万石の格を受けました。

庄内から出た人びと

浪士組を結成した清河八郎は、庄内藩領の清川村(現在の庄内町)の生まれです。戊辰戦争で二番大隊を率いた酒井玄蕃(了恒)は、新庄・横手・角間川で新政府軍を破り、「鬼玄蕃」と恐れられました。

城跡のいま

明治九年に建物はすべて取り壊され、城跡は鶴岡公園になりました。二の丸の御城稲荷神社は、藩政時代から残る唯一の建物とされます。城跡は平成二十九年(2017年)に続日本100名城に選ばれました。

場所・アクセス・地図

山形県鶴岡市馬場町

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