| 大野右仲 | |||
| 職名 | 函館新撰組頭取 | ||
| 出身 | 肥前唐津藩(江戸生まれ) | ||
| 終焉場所 | 東京 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
大野右仲をもっと深く—土方のそばで箱館を戦い、記録を残した人
箱館での土方歳三の戦いぶりを、すぐそばで見ていた一人が大野右仲です。戦いのあとは明治政府に仕え、自分の見た箱館戦争を書き残しました。
唐津藩士の子、昌平黌へ
唐津藩士・大野勘助の長男として江戸で生まれました。幼名は又七郎。安政三年(1856)から幕府の昌平坂学問所で学んでいます。唐津藩の世子・小笠原長行は幕府の老中をつとめた人で、右仲はその側近くに仕えることになります。
長岡で見た小千谷談判
戊辰戦争が始まると、「松川精一」の名で小笠原長行に従って会津へ入りました。はじめは越後長岡藩の河井継之助のもとにいて、新政府軍との小千谷談判が決裂する場面に立ち会っています。
仙台で新選組へ
その後、会津でけがの療養をしていた土方歳三を訪ねて戦いの様子を調べ、仙台で新選組に入りました。榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地へ渡ります。名簿では新選組の頭取として名が見えます。
土方の添役として
箱館政権で土方が陸軍奉行並になると、右仲はその直属の陸軍奉行添役となり、二股口の戦いから明治二年五月の箱館総攻撃まで、土方を補佐しました。
明治の役人として
降伏ののちは新政府に仕え、久美浜県・豊岡県のほか、千葉・長野・青森の各県で要職をつとめました。『函館戦記』を著しています。明治四十四年(1911)、東京・芝の自宅で亡くなりました。七十六歳。墓は谷中霊園にあります。
大野右仲の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保七年十二月八日(西暦では1837年1月14日) | 唐津藩士・大野勘助の子として生まれる。諱は興宗(煕宗とも) |
| 安政三年(1856) | 江戸の昌平坂学問所で学ぶ |
| 幕末 | 唐津藩の世子で老中の小笠原長行に仕える |
| 慶応四年(1868) | 松川精一と名乗り、越後長岡藩の小千谷談判の決裂に居合わせる。旧友の河井継之助と縁がある |
| 慶応四年 | 療養中の土方歳三を訪ね、仙台で新選組に入り頭取となる |
| 明治元年(1868) | 榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地へ渡る。陸軍奉行添役として土方の下で働く |
| 明治二年(1869) | 二股口の戦いから箱館総攻撃まで、土方を補佐する |
| 明治二年五月十一日 | 千代ヶ岡陣屋で土方と合流し、一本木関門へ向かう。この日、土方が戦死する |
| 明治四年(1871) | 久美浜県の権参事になる。のちに豊岡県権参事、千葉・長野・青森各県の要職 |
| 明治四十四年(1911)六月十一日 | 東京・芝の自宅で死去。七十六歳。谷中霊園の天王寺墓地に葬られる |
大野右仲を読み解く
学問所出の「頭取」
大野は、江戸の昌平坂学問所で学んだ秀才でした。昌平坂学問所は幕府の最高の学校で、各藩の優秀な若者が集まった場所です。仙台で入隊した大野が、すぐに頭取として隊をまとめる立場に就いたのは、この学識と、老中・小笠原長行に仕えた経歴があったからでしょう。京都時代を知らない人が、箱館では新選組を率いたことになります。
土方の最期の日
明治二年五月十一日、新政府軍の総攻撃の日、大野は土方歳三とともに一本木関門へ向かいました。大野は、土方が関門で敗走する兵を食い止めてくれると信じて弁天台場へ向かったと書き残しています。ところがそこへ届いたのは、土方戦死の知らせでした。相馬主計に土方の死を伝えたのも大野だったといわれます。土方の最期を記した記録の一つとして、大野の証言は重く見られています。
『函館戦記』という記録
大野が書いた『函館戦記』は、箱館戦争を旧幕府軍の内側から記した記録です。土方の直属として戦いを見続けた人の筆なので、二股口の戦いや総攻撃の日の動きが具体的に書かれています。明治の役人として出世した大野が、若いころの戦いを書き残したことで、箱館の新選組の姿が今に伝わりました。箱館での戦いは箱館の新選組にまとめています。
はっきりしないこと
大野が弁天台場で新選組の隊士とともに降伏したのかどうかには、異論があります。
大野右仲をさらに掘り下げる
主君・小笠原長行と新選組の縁
大野が仕えた小笠原長行は、唐津藩の世子でありながら幕府の老中に抜擢された異例の人物です。文久三年には、生麦事件の賠償金をイギリスに独断で支払ったことで知られます。慶応二年には、長州の処分を伝える使者として広島へ赴きました。このとき一行に加わっていたのが、近藤勇と伊東甲子太郎・篠原泰之進・尾形俊太郎らでした。
つまり、大野の主君と新選組とは、京都時代からすでにつながりがあったのです。戊辰戦争で長行が会津・仙台へ逃れ、大野がそれに従って北へ向かったとき、その先で新選組と合流したのは、決してまったくの偶然ではありませんでした。長行もまた、のちに榎本武揚の艦隊で箱館へ渡っています。
故郷の藩に背を向けて
一方、唐津藩そのものは、戊辰戦争で新政府の側につきました。藩主の小笠原長国は、幕府の老中として旧幕府方に身を投じた長行と縁を切り、新政府に従う道を選んでいます。大野は、藩ではなく長行個人に従った人でした。
藩の決定よりも主君への忠義を選び、さらにその先で土方歳三に仕えた大野の歩みは、「藩の武士」という枠を越えて、自分の信じる相手に付いていった人の姿を示しています。新選組の箱館での隊士には、大野のように、さまざまな藩を離れて集まった人が少なくありませんでした。
小千谷談判の決裂を見た人
大野は北へ向かう途中、旧友の河井継之助のいる越後長岡に身を寄せていました。長岡藩は新政府軍にも旧幕府方にもつかない中立を望み、河井は慶応四年五月、小千谷の慈眼寺で新政府軍の軍監・岩村精一郎と談判しますが、申し入れは退けられました。これをきっかけに長岡藩は戦いに入り、北越戦争が始まります。
戦いを避けようとした交渉が破れる場面を見た大野は、そのあと土方のもとで、最後まで戦い抜く側に立ちました。戦いを避けられなかった長岡の悲劇と、戦い続けることを選んだ箱館。大野はその二つをどちらも間近で見た、数少ない証人です。
二股口の土方を見た目
明治二年四月、土方歳三は箱館の北の二股口で、攻め寄せる新政府軍を何度も押し返しました。昼夜にわたって撃ち合いが続き、銃が焼けるほど撃ち続けたという話も伝わる激戦です。この戦いで土方の隊は敗れることなく持ちこたえましたが、ほかの方面が破られたため、退くほかありませんでした。
大野の『函館戦記』は、こうした戦いを土方のすぐそばから書き留めた記録です。後年の回想であることには注意が要りますが、昌平坂学問所に学んだ人らしい、筋道立った書きぶりで知られています。剣の人の多い新選組の中で、学問の人が最後の戦いの記録係になったことは、箱館の新選組を知るうえで大きな幸運でした。
大野右仲と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 二股口古戦場(北海道北斗市):土方が新政府軍を食い止めた戦場。右仲も加わりました。
- 谷中霊園(東京都台東区):右仲の墓所。
参考にした資料:大野右仲『函館戦記』、Wikipedia「大野右仲」。
蝦夷地に渡ってからの隊のことは、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
明治の官歴と、故郷の学生たち
箱館の記録者として知られる大野ですが、明治以降は官の道を歩いています。明治四年に豊岡県の権参事、そのあと千葉県の御用掛や郡長を務め、明治十七年からは長野・秋田・青森の各県で警部長を務めました。最後は佐賀の東松浦郡長です。旧幕府方で最後まで戦った人が、明治の県庁で働いたことになります。
明治二十年代の後半には、唐津の出身学生を支える育英団体「久敬社」の幹事を務め、学生たちに講演もしています。箱館で土方歳三の最期を見届けた人が、故郷の後進を育てる側に回ったわけです。『函館戦記』を書き残した人の後半生としては、意外なほど穏やかな歩みです。
新選組をもっと知る本
大野右仲は土方歳三の副官として最後まで従い、のちに箱館の戦いを書き残しました。京都を語った永倉新八『新撰組顛末記』と読み比べると、新選組の始まりと終わりが両側からつながります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:大石鍬次郎(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:尾形俊太郎(副長助勤)
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