漢一郎【新選組隊士 会津新選組旗役 幕末】

漢一郎
職名 会津新選組旗役
出身 大阪
終焉場所 会津母成峠攻防戦
終焉方法 戦死

慶応四年の五兵衛新田駐屯地以前に入隊しました。
同年の会津母成峠の戦いで戦死しました。

会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

漢一郎をもっと深く—「漢」を姓とする、旗役頭取

読みは「あや いちろう」。「漢」の一字を姓とする、新選組でも珍しい名前です。

大坂から来て、旗役頭取に

天保九年、摂津国大坂の生まれ。役職は旗役頭取でした。

旗役は、隊旗を預かる役です。新選組の「誠」の旗を掲げて隊の位置を示す—戦場では真っ先に狙われる立場でもあります。その頭取ですから、旗方をまとめる役だったことになります。

入隊時期は分かっていません。

近藤勇を失ってから、土方に従いました

この人の経歴で重要なのは、いつまで隊にいたかです。

慶応四年四月、近藤勇が流山で投降し、板橋で斬首されます。隊は局長を失いました。

そのあと漢一郎は土方歳三に従い、大鳥圭介の率いる旧幕府軍と合流して宇都宮・会津と転戦しています。宇都宮城は五日間で二度も主が変わった激戦地で、土方はここで足を撃たれました。

慶応四年八月二十一日、母成峠

そして母成峠の戦いで戦死します。享年三十一。

母成峠は会津の防衛線でした。ここが破られたことで、新政府軍は一気に若松城下へなだれ込みます。会津戦争の帰趨を決めた一日です。

この戦いでは阿部隼太が負傷し、池田七三郎も生き延びて会津に残りました。漢一郎は、そこで死んだ側です。

顔が残っています

この人には、名前だけでなく肖像が残っています。

隊士・中島登が描いた『戦友姿絵』(市立函館博物館蔵)です。戦死した新選組隊士二十六名と旧幕府兵らを追慕して描かれた絵巻で、縦三十五センチ、横八メートル余り。そこに描かれた三十一人のうちの一人が漢一郎です。

新選組の隊士名簿は複数の系統があって錯綜しており、大半の隊士は名前と役職しか伝わっていません。そのなかで、絵に描かれて顔が残っている人は例外中の例外です。同じ絵には伊藤鉄五郎も描かれています。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)

読みは「あや いちろう」といいます

「漢」という姓の読みについて、「あや」とする資料があります。渡来系の氏族に由来する古い姓で、隊士名簿でも「あ」の行に並べられていますから、この読みで通っていたとみてよさそうです。天保九年の生まれ、摂津大坂の出とされ、母成峠で死んだとき三十一歳でした。

同じ日、同じ峠に、三人いました

慶応四年八月二十一日の母成峠古戦場跡の戦いは、朝九時に始まって夕方四時に決着しています。旧幕府側およそ八百に対し、新政府側は二千二百。三段に築かれた台場が一つずつ抜かれていった一日でした。当サイトに名のある隊士のうち、この日この場所にいたことが分かっているのは三人です。漢一郎は戦死し、石田入道も最奥の台場で倒れ、阿部隼太は傷を負って生き延び、のちに箱館まで渡りました。旗役頭取という役は隊の旗を預かる役ですから、漢一郎は部隊のいちばん目立つところに立っていたことになります。

京を知らないまま死んだ隊士です

入隊は慶応四年の五兵衛新田駐屯より前とされますので、この人が新選組にいた期間は半年ほどです。池田屋も三条制札も知らず、壬生にも西本願寺にも不動堂村にもいたことがない。近藤勇が流山で捕らえられたあと土方歳三に従って大鳥圭介の軍と合流し、宇都宮から会津へと転戦して、峠で死にました。新選組といえば京の治安組織を思い浮かべますが、隊の後半に入った者にとっては、はじめから負け戦を追いかける部隊でした。

漢一郎の生きた時代—会津の新選組と如来堂

会津での新選組 慶応四年(1868)の夏、会津に入った新選組は、会津藩とともに新政府軍と戦いました。宇都宮の戦いで足を負傷した土方歳三に代わり、隊を率いたのは斎藤一(山口次郎)です。新選組は白河口の戦いにも加わり、会津の守りの一翼を担いました。

如来堂の戦い 母成峠が破られ、新政府軍が会津に攻め込むと、土方は援軍を求めて庄内へ向かいますが、斎藤らは会津に残って戦い続けました。九月には、城下の北の如来堂で新選組の隊士たちが新政府軍に囲まれ、多くが命を落としたと伝えられます。大坂出身の漢一郎も、会津の戦いで倒れた一人です。

慶応四年の新選組と、会津に残った隊士たち

増えては減った隊士の数

鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組は、慶応四年三月、甲陽鎮撫隊として甲府を目指しました。このとき新選組の隊士はおよそ七十人だったとされます。勝沼で敗れたのち、隊は五兵衛新田に集まって人数を増やし、二百二十七人を数えたともいわれます。しかし流山で近藤勇が投降し、宇都宮・白河と転戦するうちに隊は減っていきました。会津藩が降伏に向かうなか、斎藤一らとともに会津に残った隊士は十三人だったとされます。

京都以来の幹部の行方

漢一郎が会津の新選組にいたころ、京都で隊を率いた幹部たちは、それぞれ違う道を歩んでいました。主な幹部のその後は次のとおりです。

  • 近藤勇(局長):慶応四年四月、流山で投降し、板橋で斬首
  • 沖田総司(一番組長):慶応四年五月、江戸で病死
  • 井上源三郎(六番組長):慶応四年一月、淀千両松で戦死
  • 永倉新八・原田左之助:慶応四年三月、甲州から戻ったのち隊を離れ、靖兵隊を結成。原田は上野戦争で負った傷がもとで死去
  • 斎藤一:会津に残って戦う
  • 土方歳三(副長):箱館へ渡り、箱館政権の陸軍奉行並となる。明治二年五月十一日に戦死

参考資料:Wikipedia日本語版「漢一郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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