晨風丸【佐賀藩 カッター級輸送船 幕末軍艦】

晨風丸
藩名 佐賀藩
藩主 鍋島直正(閑叟)
船種 カッター級輸送船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 無
晨風丸のイメージイラスト
晨風丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(カッター級輸送船・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

長崎形の姉妹船で、長12間・幅3間・50トン。

佐賀藩が安政五年(1858年)に進水させた洋式帆船で、のちに肥前の三重津に置かれました。当初、佐賀藩は蒸気船の開発を志したが模型の作製のみにて終了とし、帆船に目標を改めて、前年購入の「飛雲丸」を参考にカッター型帆船「晨風丸」建造しました。

建造地は、長崎だったようです

晨風丸は佐賀藩が三重津の造船所で造ったと説明されることがありますが、時系列を見ると疑いが残ります。晨風丸の起工は安政四年十一月十一日、三重津に御船手稽古所が置かれたのは安政五年二月ですから、起工のほうが先になります。まだ無い場所では造れません。複数の資料は、晨風丸を長崎の大波止、つまり長崎海軍伝習所で造られたものとし、できあがってから三重津へ回航されたとしています。こちらのほうが筋が通ります。

藩主が、進水を見に来ました

進水の日は安政五年四月十一日とする資料と、四月十五日とする資料があります。進水式には藩主の鍋島直正が自ら臨席しました。長さおよそ二十一・八メートル、幅およそ五・七六メートル、排水量五十トン。六十トンとする文献もあります。幕府が長崎で造った長崎形と同じ型で、一本マストのカッターでした。

前の年に買った船を、手本にしています

佐賀藩は前の年、安政四年にオランダから飛雲丸を買っていました。晨風丸はその飛雲丸を参考に造られたとされます。買った船を隅々まで見て、同じものを造ってみる。幕末の藩がやったのは、たいていこの順序でした。なお伝わる記述では佐賀藩がはじめ蒸気船を造ろうとして模型だけで終わり、帆船に切り替えた、としていますが、この経緯については裏づけとなる資料が見つかりませんでした。

同じ名前の船が、久留米藩にもあります

当サイトには晨風丸のページがもう一つあり、そちらは久留米藩の船です。千八百六十四年にアメリカのワシントンで造られ、慶応二年九月に久留米藩が買った百馬力の蒸気船で、大砲を六門積んでいました。原名はマルチインウアイト。晨風丸のページをご覧ください。同じ名前ですが、別の船です。

同じ名前の船について

幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、晨風丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。

  • 晨風丸(久留米藩・スクリュー輸送船・蒸気内輪)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます
目次

晨風丸を船の型と持ち主から読む

晨風丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「カッター級輸送船」。1本マストの小型の「カッター型」の帆装を持つ人や荷を運ぶ輸送船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この晨風丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、凌風丸(輸送船)、孟春丸(スクーナー級砲艦)、飛雲丸(スクーナー)、日進丸(バーク級巡洋艦)、電流丸(クリッパー級コルベット船)、神効丸(輸送船)、秋芳丸(輸送船)、甲子丸(バーク船)などがあります。

持ち主の佐賀藩の幕末をふり返ると、洋式化の先進藩。戊辰戦争では新政府軍としてアームストロング砲で活躍。晨風丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の佐賀藩—反射炉と鉄の大砲

日本初の反射炉

佐賀藩は嘉永三年(1850)、城下の築地に日本で最初の実用的な反射炉を築き、鉄製の大砲をつくり始めました。鉄を溶かす高い温度を得るための炉で、オランダの書物だけを頼りに何度も失敗を重ねながら完成させたものです。のちには多布施にも反射炉を築き、幕府から注文を受けて、江戸湾の品川台場に据える大砲も納めました。

船と大砲

晨風丸が佐賀藩の船となった安政五年(1858)ごろ、佐賀藩は大砲と船という、海の守りの両輪をそろえつつありました。長崎の警備を担う藩として、外国の軍艦に備える必要があったのです。

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