延年丸【佐賀藩 スクーナー級砲艦 幕末軍艦】

延年丸
藩名 佐賀藩
藩主 鍋島閑奏
船種 バーク船
機関 蒸気内車
備砲 9門
材質 木骨木皮
馬力 140馬力
写真 絵図

■ 詳細
延年丸は佐賀藩所属の軍艦です。3檣スクーナー形の木造蒸気砲艦で、箱館湾海戦にも参加しました。
前身は1868年に香港で建造された砲艦で原名「カレドニア(Caledonia)」で、明治元年9月(1868年10月)に佐賀藩が購入し「延年丸」と改名しました。

一説には「電流丸」の同型艦とも称するが、国籍も諸元も異なるので詳細は不明です。同年に新政府軍に徴発され、翌年の榎本艦隊追撃に参加し、明治2年5月11日(1869年6月20日)に青森港から箱館に到着し、箱館湾海戦にも参加しました。明治4年9月(1871年10月)に新政府への献納の申し出があったが大砲のみが献納され、船体は同年12月(1872年1月)に売却され、郵便蒸気船会社(後の郵便汽船三菱会社)の所属となりました。

目次

所属した佐賀藩と、長崎警備

この輸送船・延年丸を運用したのも、佐賀藩(鍋島家)です。佐賀藩が早くから近代化を志した背景には、長崎の防衛という重い役目がありました。

佐賀藩は福岡藩と交代で、幕府の長崎警備を任されていました。文化五年(1808)、イギリス軍艦が長崎港に侵入したフェートン号事件で警備の不備が露呈すると、藩は西洋の軍事力に追いつく必要を痛感します。この危機感が、のちの鍋島直正による反射炉や海軍の近代化へとつながりました。延年丸は、その佐賀藩の一隻です。

延年丸をもっと深く——土方歳三が死んだその日に、箱館へ着いた船

佐賀藩が明治元年九月、長崎で買った蒸気砲艦です。買われてから半年後には、箱館の海で戦っていました。

建造 香港(1868年竣工)
旧船名 カレドニア(Caledonia)
購入 明治元年(1868年)9月、長崎で佐賀藩
購入価格 不明
船型 三檣スクーナー形・木造蒸気砲艦
要目 全長41.8m/全幅7.3m/100馬力/7ノット/砲8門
排水量 400〜500トン(推定・諸説あり)

造られた年に、買われた船

香港で1868年に竣工し、その年のうちに長崎で佐賀藩の手に渡っています。新造から数か月の船です。

幕末の日本が買った船の多くは、欧米で十年二十年使われた中古でした。三邦丸は1862年建造で慶応元年の購入、翔凰丸も同様です。そのなかで延年丸は例外的に新しい。

備砲は英式20斤アームストロング砲二門ほか計八門。ただし佐賀藩のアームストロング砲については、国産化に成功したのか輸入品だったのか、佐賀県の公式資料でも「その実非は明らかではない」とされています。この船の砲がどちらだったかも分からません。

明治二年五月十一日、青森から箱館へ

明治二年、延年丸は榎本艦隊の追撃に加わりました。そして五月十一日、青森港から箱館に到着し、その日の箱館湾海戦に参加しています。

五月十一日——新政府軍が箱館市中へ総攻撃をかけた日です。土方歳三が一本木関門で銃弾に倒れたのが、まさにこの日でした。弁天台場に孤立した新選組が降伏するのは四日後の五月十五日、五稜郭の開城は五月十八日です。

延年丸は、旧幕府軍が終わっていく最後の一週間の海にきました。官軍艦隊は甲鉄を旗艦に、朝陽丸・春日丸・陽春丸・延年丸・丁卯丸の六隻。同じ佐賀藩の電流丸はこの戦いに加わっていません。

普仏戦争と、長崎の中立

戦後の任務も興味深いです。明治三年七月、ヨーロッパで普仏戦争が始まると、日本は中立を宣言しました。その中立を守るため、長崎港に派遣された三隻のうちの一隻が延年丸です。

龍驤、電流丸とともに、指揮をとったのは佐賀藩出身の中牟田倉之助。千歳丸で上海を見たあの中牟田です。三重津海軍所で学んだ者が、そのまま明治の海軍の指揮官になっていきました。

倉庫船になったという説

明治四年十二月、砲だけが献納され、船体は伊万里で売られました。その後については資料が割れています。そのまま解体されたという説と、郵便汽船三菱会社に移って倉庫船として使われたという説です。

戦って三年、働いて三年。箱館の最後の海を見た船の行方は、はっきりしません。

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