三春藩/秋田家5万石:秋田映季 無血開城して新政府側に転じ「裏切り」と語られた三春藩

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三春藩の歩み

戊辰戦争の際には他の東北諸藩同様に新政府側であったが、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵暗殺と会津・旧幕府軍による白河城攻略による白石会議が「奥羽越列藩同盟」に変貌した為これに加わります。

三春藩/秋田家5万石:秋田映季【幕末維新写真館】

新政府軍の「迅衝隊(土佐藩)」による棚倉城落城と、仙台藩の棚倉城防衛放棄ともとれる背信的行為、これに加え平潟の新政府軍上陸により防衛が不可能と判断され、「断金隊」隊長の「美正貫一郎」の尽力や郷士「河野広中」の斡旋もあり新政府軍に無血降伏をします。

これにより逆賊となることは回避され、藩内を兵災から守り、多くの人命が救われ、所領も安堵されて維新を迎えることが出来ました。しかし、二本松藩や会津藩、仙台藩など三春藩と行動を共にしていた各藩からはこの背面行為は許せないものでした。三春藩の降伏により二本松藩は新政府軍から一方的な攻撃にさらされ城は落城しました。

「同盟軍を攻撃した」という話は、史料では確かめられていません

三春藩には「裏切りの藩」という評判が長くついてきました。無血開城して新政府側に転じたことは事実ですが、そのあと同盟軍に攻撃を加えたという部分は、史料の上では証明できないというのが研究の結論です。戦史研究者の大山柏がそう述べています。

三春藩は「奥羽越列藩同盟軍へ攻撃を加えた」と説明されることがありますが、その裏づけは取れていません。以下、何が確かめられて何が確かめられないのかを順に見ていきます。

七歳で藩主になった子と、後見した叔父

まず前提として、戊辰当時の三春藩主はまだ子どもでした。

十一代秋田映季(あきすえ)は安政五年(1858年)生まれ。父は十代秋田肥季(ひですえ)で、三春町の資料館は映季を「肥季の三男」としています(兄二人が早世したため。次男とする資料もあります)。肥季が慶応元年(1865年)五月に亡くなり、映季は数え八歳で藩主になりました。慶応四年の時点で数え十一歳、満十歳です。

実際に藩政を担ったのは叔父の秋田季春(すえはる、主税)でした。後見人としてこの藩の判断を下していたのはこの人です。

なお父の肥季は文化九年(1812年)生まれ、天保三年に藩主となり、元治元年の水戸天狗党の乱では日光の警備を命じられています。映季は明治四十年(1907年)二月に四十九歳で亡くなりました。

七月二十六日、貝山の土佐陣へ

三春町歴史民俗資料館がまとめている経過は、はっきりしています。

新政府軍は七月二十三日、平・棚倉・白河の三方から進軍してきました。棚倉城が落ち、平潟には新政府軍が上陸しており、防衛は成り立たなくなっていました。

七月二十六日朝まで出陣していた同盟軍が引き上げたあと、藩主名代の秋田主税(季春)が、貝山に滞陣する土佐陣へ投降し、無血開城を果たしました。町の記述は「慶応四年七月二十六日昼近く、三春城下には、官軍が来たことを知らせる太鼓が鳴り響き」と続きます。無血入城は翌二十七日です。

この降伏を実現させたのは、三春の尊王派でした。町の資料は河野広胖(こうのこうはん=広中の兄)、影山正博、安積儀作の名を挙げ、彼らが参謀板垣退助ら官軍の士官に接触したとしています。思想的な背景は尊王攘夷で、三春に潜伏していた水戸の学者の影響を受けていました。

意外なのは、のちに自由民権運動の指導者となる河野広中の立場です。広中は使節から外されました。理由は「風采が異常で人目を引く」からだと町の資料は書いています。三春の降伏を広中の功績として語る通説がありますが、少なくとも交渉の使節に彼はいませんでした。

藩として戦ったのか、個人として戦ったのか

ここが「裏切り」評価の核心です。

『二本松藩史』には浅川の戦闘について「十六日丹羽、奥野、野崎の諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊と合して浅川の敵陣を攻めむ」とあります。いっぽう『復古記』が描く同じ戦況では、浅川で三春藩と仙台藩は官軍の攻撃から守勢に回っていたことが示唆されます。土佐・彦根の兵が防戦し、薩摩の兵が背後から攻めて戦局が決まったという記述です。

つまり、三春藩が同盟軍に攻撃を加えたという具体的な戦闘と日付は、公開されている史料からは特定できません。二本松攻めや会津攻めに藩として加わったことを示す記述も、三春町の公式資料には見当たりません。

確かめられるのは別のことです。三春の尊王派の郷士たちが、土佐藩の断金隊に個人として次々と入隊していきました。河野広中もその一人です。藩としての参戦と、個人としての入隊は、分けて考える必要があります。

断金隊を指揮していたのが板垣退助で、隊長の美正貫一郎は開城の翌日、阿武隈川の渡河で先頭を進んで対岸から銃撃され戦死しました。町の資料は、美正が「汚名返上しようと」先頭に立ったと記しています。維新後、河野広中らは美正神社を建てて彼を供養しました。「汚名」という言葉は、三春の側ではなく美正の側について語られていた言葉です。

秋田家は、もともと秋田の大名でした

三春藩の秋田家は、藩名からは見えない経歴を持っています。

この家は北奥羽の名門安倍氏の末裔を称し、鎌倉期には安藤氏を名乗りました。映季の遠祖秋田実季は秋田土崎湊城(現在の秋田市)の城主です。つまり秋田家は文字どおり秋田の大名でした。

慶長七年(1602年)、関ヶ原の戦後に佐竹氏と入れ替わって常陸宍戸へ転封されます(慶長五年とする資料もあります)。実季は寛永八年(1631年)に所領を没収されて配流となりましたが、子の秋田俊季は処罰されず宍戸を保ちました。俊季の母は細川昭元の娘で徳川秀忠夫人の従姉妹、俊季自身は家光の従兄弟の子という血筋です。

そして正保二年(1645年)八月、俊季が常陸宍戸から三春へ入封します。石高は五万石とするものと五万五千石とするものがあり、宍戸五万石に五千石の加増という説明とも整合します。俊季は慶長三年(1598年)生まれで慶安二年(1649年)一月三日に五十二歳で没しており、三春にいたのは三年半ほどでした。荒町の高乾院に葬られています。以後、秋田家は十一代・約二百二十年にわたって三春を治めました。

秋田氏は代々「秋田城介」の官職を保っており、家臣にも秋田姓を与えていました。降伏交渉に立った秋田季春が「秋田主税」とも呼ばれるのはこの流れです。

三春城と、田村氏と愛姫

三春城(舞鶴城)を築いたのは戦国大名の田村義顕で、永正元年(1504年)と伝わります。守山から三春へ移ってきた人です。城の上空を鶴が舞ったので舞鶴城と呼ばれるという説があります。

この田村家から、伊達政宗の正室が出ています。田村清顕は男子に恵まれず、一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡子政宗に嫁がせました。清顕の急死後、田村家は伊達氏の勢力下に入ります。のちに田村家は仙台藩の支藩として一関藩三万石に立てられており、三春の城を築いた家と、三春が降伏した相手方だった仙台藩は、こういう形でつながっています。

秋田家の前の城主は松下家でした。寛永年間の松下長綱の代には本丸に三階の櫓や漆喰壁の建築物が建てられていましたが、長綱は正保元年(1644年)に改易されます。秋田俊季は本丸御殿を儀式のときだけ使い、日常の御殿は現在の三春小学校の位置に建てました。

三春城跡は三春町の指定史跡です。県史跡ではありません(指定年月日は確認できていません)。三春町歴史民俗資料館が城跡の発掘調査報告書を刊行しており、藩主秋田氏や河野広中についての詳しい連載も公開しています。

藩校と家臣と、三春のもの

藩校は明徳堂(藩講所)。天明元年(1781年)、現在の三春町福祉会館の場所に建てられました。天明五年(1785年)の火災で焼失して再建されています。「明徳堂」というのは校内の講堂の呼び名で、門は「藩講所明徳堂表門」、町の人は「明徳門」と呼びました。昭和二十二年(1947年)に警察署の建設にともなって移され、いまは三春小学校の校門になっています。講所の建物は取り壊され、門だけが残りました。

家臣については、町の資料館が具体的な数字を出しています。秋田氏の三春支配は約二百二十年、そのうち十九世紀を除く約百五十年間の新規召し抱えは約七十八家。二代盛季が十八家、三代輝季が二十四家、七代倩季が十一家です。初期は前の三春領主の旧臣や会津・二本松出身者を、土地の事情に通じた行政官として採用していましたが、のちには正室やその侍女の親族の登用に傾いていきます。十八世紀前半から中頃の新規召し抱えは百石から百五十石が多く、市川家・赤松家といった重職は二百五十石でした。

三春駒の起源は、京都清水寺の僧延鎮が坂上田村麻呂の出兵にあたって仏像を刻んだ残りの木切れで百頭の木馬を作り、それが実戦で本物の馬になって田村麻呂を助けたという伝説です。八幡馬・木ノ下駒とならぶ日本三大駒の一つで、宮城県の木ノ下駒の影響を受けています。三春張子人形(三春人形)は江戸時代に作り始められ、文化・文政のころが最盛期でした。仙台の堤土人形の影響が見られます。

ただし、どちらも産地は高柴村(現在の福島県郡山市西田町高柴)のデコ屋敷です。三春領が馬の産地だったことを反映した名前で、いまの行政区画では三春町ではなく郡山市にあります。

そして三春滝桜。エドヒガン系の紅枝垂桜で、樹齢は千年以上と推定され、樹高十三・五メートル、根回り十一・三メートル。大正十一年(1922年)十月十二日に国の天然記念物に指定されました。日本三大桜の一つです。

その後

明治二年(1869年)六月、版籍奉還により秋田映季が知藩事となり、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で免官されました。のち明治九年(1876年)に福島県へ編入されます。

映季は明治十七年(1884年)七月八日に子爵となり、明治二十三年七月十日に貴族院子爵議員に選ばれ、明治三十年十月二十五日に辞職しました。後継については、旧公家の大原重朝の二男重光を養子として娘婿に迎え、秋田重季としています。

いっぽう河野広中は、嘉永二年(1849年)七月七日生まれ。三春藩の郷士身分をもつ商家の出身です。維新後は若松県や三春藩庁に出仕し、明治八年(1875年)に石陽社を組織、明治十五年には福島県令三島通庸と対立して福島事件を引き起こしました。そして明治三十六年(1903年)に衆議院議長となります。大正十二年(1923年)十二月二十九日、東京で亡くなりました。

降伏の使節から「風采が異常」という理由で外された郷士が、三十五年後に衆議院議長の席に座った。三春の戊辰は、そういう終わり方をしています。

三春の現地を歩いた記録

三春藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

三春藩の降伏が二本松藩に与えた影響は、こちらの記事で解説しています。
二本松の戦いとは?主力不在の城が1日で落ち、二本松少年隊が散った戊辰戦争を図解でわかりやすく

三春藩の降伏の前、新政府軍が棚倉城を落とした戦いは、こちらで解説しています。
棚倉城の戦いとは?主力を白河口に出した棚倉藩が1日で城を失った戊辰戦争を図解でわかりやすく

場所・アクセス・地図

〒963-7759 福島県田村郡三春町大町

三春駒の里・三春藩

三春藩は、陸奥国田村郡(現在の福島県三春町)に置かれた五万石の藩で、三春城を居城とし、藩主は秋田家でした。郷土玩具「三春駒」や名木・滝桜で知られる、奥州のなかほどに位置する藩です。

同盟からの寝返り

戊辰戦争において三春藩は、当初は奥羽越列藩同盟に加わっていました。しかし新政府軍が迫ると、藩は新政府軍に無血降伏しました。この寝返りは、隣接する二本松藩などが孤立して悲劇的な戦いに追い込まれる一因ともなりました。同盟の結束がもろくも崩れていった、戊辰戦争東北戦線の実情を伝える藩です。

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