| 戊辰丸 | |||
| 藩名 | 阿波徳島藩 | ||
| 藩主 | 蜂須賀茂韶 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気船 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 無 | ||

幕末から明治初年に徳島藩が所有していた船は運輸船3隻であり、そのうち1隻は木造帆船の「通済丸」で2隻は木造汽船の「乾元丸」と「戊辰丸」でした。
「戊辰丸」は原名を「ヒリピノ Filipino」といい、1866年にイギリスのグラスゴーで製作されました。慶応四年(1868)八月にイギリス商社のグラバー商会を通じて購入されました。船種は木製螺旋汽船・帆柱2本、長195尺・幅26尺・深14尺・120馬力・総トン数518.81トンでした。
のちに蒸気船「乾元丸」を購入し、本格的な運輸船を使った特産物販売の商法を行い始めました。この政策は、慶応四年に「戊辰丸」を購入することで、より推し進められました。
所属した徳島藩と幕末の動き
この軍艦・戊辰丸を運用したのは、阿波の阿波徳島藩(蜂須賀家)です。二十五万石の大藩で、淡路島も領して瀬戸内の要衝を押さえていました。
徳島藩は、豊臣秀吉に仕えた蜂須賀家の流れをくむ外様の大藩です。幕末には目立った動きは少なかったものの、戊辰戦争では新政府方について藩兵を各地へ送りました。船の名の「戊辰」はまさに戊辰戦争の年にちなむとみられ、新しい時代の側に立った徳島藩の姿勢がうかがえます。
藍玉を運ぶために買った船が、箱館へ向かいました
徳島県立博物館の解説によれば、戊辰丸は明治元年正月に十二万五千ドルで買われた船です。全長三十九間、およそ七十メートルで、積載量は四百五十トン、総鉄造の赤い蒸気船で、造られてから四年たっていました。買った目的は阿波藍の藍玉を運んで売ることでしたが、その一年あまりのちの明治二年三月九日、この船は品川を出て箱館へ向かう新政府軍の艦隊に加わっています。軍艦が甲鉄・春日・丁卯丸・陽春丸、輸送船が戊辰丸・晨風丸・飛龍丸・豊安丸の八隻でした。藍を運ぶはずの船が、兵を運ぶことになったわけです。
鵬翔丸と改められました
のちにこの船は鵬翔丸と名を改め、明治十四年に青森県の沖で座礁して沈みました。なお当サイトには鵬翔丸という別のページがありますが、そちらは幕府が持っていた洋式帆船で、原名をカタリナ・テレジアという1857年建造の船です。名が同じだけの別の船ですので、混同しないよう書き添えておきます。
この船の記録は、二通りあります
戊辰丸については、内容の違う二つの記録があります。当サイトが載せているのは、原名をヒリピノ(Filipino)といい、1866年にイギリスのグラスゴーで造られ、慶応四年八月にグラバー商会を通じて買った木製の螺旋汽船、というものです。
もう一つは、徳島県立博物館が蜂須賀家文書「蒸汽船購入一件」という一次史料をもとにまとめたものです。こちらでは、購入が明治元年一月、価格は十二万五千ドル、全長が約三十九間でおよそ七十メートル、積載量四百五十トン、そして「総鉄造」で、買った時点で建造から四年を経ていたとされます。
慶応四年と明治元年は同じ年ですが、月が一月と八月で違います。材質も木製と総鉄造で正反対です。どちらが正しいかを決められる材料がないので、両方を書き残しておきます。ただ、買った時点で建造から四年という博物館の記述は、1866年建造という伝わる記述とちょうど合いますから、同じ船を指していることは間違いありません。
軍艦ではなく、藍を運ぶ船でした
徳島県立博物館は、この船の用途をはっきり「軍艦ではなく商船」とし、阿波藍の藍玉の輸送や販売のための船だったとしています。当サイトは船種を「スクリュー汽船」として軍艦の一覧に入れていますが、スクリューであることを裏づける資料も見つけられませんでした。
十二万五千ドルという値は、博物館の換算で現在の十四億円あまりにあたります。藍を売るために十四億円の船を買った、ということになります。徳島藩は乾元丸に続いてこの船を手に入れ、特産物の輸送と販売に本気で乗り出しました。
鵬翔丸になってから、十年近く走りました
廃藩置県のあと、この船は蜂須賀家の所有から明治五年に阿波の藍商・井上家へ売られ、「鵬翔丸」と改められました。そして明治十四年、青森県の沖で座礁して沈みます。
明治政府への献納ではありません。藩の船が海軍へ集められていった時期に、この船は民間の商人の手に渡り、商船として最後まで走りました。藍を運ぶために買われた船が、名を変えてなお運び続け、津軽の海で終わったことになります。



