通済丸【徳島藩 スクーナー船 幕末軍艦】

通済丸
藩名 阿波徳島藩
藩主 蜂須賀斉裕
船種 スクーナー船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図
通済丸のイメージイラスト
通済丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(スクーナー船・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

幕末から明治初年に徳島藩が所有していた船は運輸船3隻であり、そのうち1隻は木造帆船の「通済丸」で2隻は木造汽船の「乾元丸」と「戊辰丸」でした。

通済丸は、安政四年(1857年)八月に江戸石川島で製作されたもので、その船種は木造帆船・帆柱2本、長103尺・幅24尺・深19尺でした。文久二年当時、藩は帆船「通済丸」を中心に物産の商用を行っていたが蒸気船「乾元丸」を新たに購入してその任にあたらせました。

この船名の裏づけが、見つかりません

通済丸という名で調べても、徳島藩の船として記した資料を見つけられませんでした。徳島県立博物館が公開している「徳島藩の蒸気船」という解説も、扱っているのは乾元丸と戊辰丸の二隻だけで、通済丸は出てきません。安政四年八月に江戸の石川島で造られたという話についても、石川島の造船所が幕末に造ったのは旭日丸・君沢形四隻・千代田形とされていて、よその藩から注文を受けて造った記録は見あたりませんでした。無かったと言い切れるだけの材料もありませんので、裏が取れていないことだけを書き留めておきます。

乾元丸と戊辰丸のほうは、はっきりしています

乾元丸は原名をセントロイス号といい、文久二年の暮れに八万八千ドルで買われました。徳島県立博物館によれば、売り主はトーマス・ウォルス、交渉にあたったのは江戸留守居役の廣岡多門や武谷新之進、船手頭の森甚五平衛、通辞の天毛政吉たちです。阿波から江戸へ米や塩を運ぶ商いの船で、明治二年ごろに二万円で薩摩藩へ売られました。戊辰丸のほうは明治元年正月に十二万五千ドル、全長三十九間で積載量四百五十トン、藍玉を運ぶために買った船でしたが、明治二年三月には新政府の艦隊に加わって箱館へ向かっています。

藩主の名について

藩主の蜂須賀斉裕は、十一代将軍徳川家斉の二十二男です。文政四年九月十九日の生まれ、天保十四年に徳島藩主となり、文久二年十二月には幕府の陸軍総裁と海軍総裁を兼ねました。慶応四年正月六日、鳥羽伏見の戦いのさなかに四十八歳で急に亡くなっています。ですので、慶応四年八月に戊辰丸を買ったときも、明治三年の稲田騒動のときも、藩主は次の蜂須賀茂韶でした。

目次

通済丸を船の型と持ち主から読む

通済丸は帆走の船です。機関も石炭もいらない帆船は、藩にとって安く使いやすい運び手でした。(帆船と蒸気船の違い)船種は「スクーナー船」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している徳島藩の船は、この通済丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ徳島藩の船には、戊辰丸(スクリュー汽船)、乾元丸(スクリュー汽船)があります。

持ち主の徳島藩の幕末をふり返ると、新政府側。明治に入り稲田騒動が起こる。通済丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の徳島藩—稲田騒動

徳島藩の明治

徳島藩(蜂須賀家二十五万石)は、明治のはじめに大きな内紛を経験しました。藩の筆頭家老で淡路の洲本城を預かっていた稲田家の家臣たちが、徳島藩から独立したいと願い出たことに、藩士たちが激しく反発したのです。明治三年(1870)、徳島藩の藩士たちは洲本の稲田家の屋敷を襲い、多くの死傷者を出しました(庚午事変、稲田騒動)。

その結果

この事件で稲田家の人々は北海道の静内へ移され、開拓に従事することになりました。この話は、のちに小説や映画『北の零年』の題材にもなっています。淡路島は、この事件をきっかけに徳島県ではなく兵庫県に入ることになりました。

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