| 乾元丸 | |||
| 藩名 | 徳島藩 | ||
| 藩主 | 蜂須賀斎祐 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気船 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 90馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

■ 詳細
幕末から明治初年に徳島藩が所有していた船は運輸船3隻であり、そのうち1隻は木造帆船の「通済丸」、2隻は木造汽船の「乾元丸」と「戊辰丸」でした。
乾元丸は原名を「セントロイス号」といいアメリカで製作され、文久二年(1862年)11 月に横浜で購入されました。船種は木製螺旋汽船・帆柱3本、長276尺・幅45尺・深33尺・80馬力でした。
これらの船は、藍や塩など阿波国を代表する特産物を江戸などに運ぶ運輸船として使用されました。乾元丸の購入は、徳島藩が本格的に運輸船を使った特産物販売の商法に重点を置いたことを示しています。
この政策は、慶応四年に戊辰丸を購入することで、より推し進められていきます。しかし、乾元丸は購入から7年後の明治二年(1869)頃、徳島藩での役割を終えて薩摩藩に売却されています。
所属した徳島藩と、蜂須賀茂韶
この軍艦・乾元丸を運用したのも、阿波徳島藩(蜂須賀家)です。徳島藩の最後の藩主が、蜂須賀茂韶(もちあき)でした。
茂韶は戊辰戦争で新政府方につき、藩兵を各地へ送りました。維新後はイギリスに留学し、駐仏公使や文部大臣、貴族院議長などを務めて、明治国家の中枢で活躍します。旧大名家から近代の政治家へと転身した一人でした。乾元丸は、その徳島藩の一隻です。
幕末軍艦一覧リスト
十億円の買い物でした
徳島県立博物館の解説によれば、乾元丸の原名はセントロイス号といい、文久二年の暮れに八万八千ドルで買われました。同館はこの額を、今の値に直せば十億円あまりだとしています。売り主はトーマス・ウォルス、交渉にあたったのは江戸留守居役の廣岡多門、武谷新之進、森雄助、三守孝次、船手頭の森甚五平衛、通辞の天毛政吉、それに西洋の兵学に通じた高畠五郎でした。名前の分かる人がこれだけ並ぶ買い物は、幕末の船のなかでも珍しいほうです。
軍艦ではなく、商いの船でした
この船が買われた目的は、阿波から江戸へ米や塩といった藩の産物を運ぶことでした。同じ阿波徳島藩の戊辰丸も藍玉を運ぶために買われており、この藩の船は交易のための船として揃えられています。乾元丸は明治二年ごろ、二万円で薩摩藩へ売られました。八万八千ドルで買った船が二万円になったことになります。
乗組員を雇って、二週間で習いました
この船の買い付けについては、蜂須賀家文書「蒸汽船購入一件」という二冊の記録が残っており、徳島県立博物館がその中身を紹介しています。船を買うというのがどれだけの騒ぎだったかが、よく分かる話です。
売り主はアメリカのトーマス・ウォルス・ホール商会。船長はヘンリ・E・パルレルド。徳島藩側は統括と船将を森甚五平衛が務め、通辞として天毛政吉と高畠五郎が付きました。契約のあと、元の乗組員八名をそのまま雇って二週間の訓練を受け、この一件には約九十名の藩士が関わったといいます。
船を買っても動かせないのですから、乗組員ごと雇うしかありません。二週間で蒸気船の操船を習うというのも無茶な話ですが、そうやって始めるほかなかった。幕末の藩が汽船を持つというのは、こういうことでした。
購入の日付について
徳島県立博物館は購入を文久二年十二月二十四日としています。当サイトは文久二年十一月に横浜で購入としており、月が一つずれます。なお博物館のページは西暦を「1862年12月24日」と併記していますが、文久二年十二月二十四日を厳密に換算すると1863年2月11日になります。西暦の対応にずれがあるので、和暦で書いておくのが確かです。
価格は八万八千ドル。博物館の換算で現在の十億円あまりにあたります。総トン数と全長については博物館が「よくわかっていません」と明記しており、当サイトが載せている長二百七十六尺・幅四十五尺・深三十三尺・八十馬力という数字は、別の資料によるものです。建造年もわかっていません。
売った先は薩摩藩でした
明治二年ごろ、この船は徳島藩での役目を終えて薩摩藩に売られました。値は二万円。八万八千ドルで買った船ですから、七年でかなり下がったことになります。明治政府への献納ではありません。
幕末の船は、こうして藩から藩へよく渡りました。艦船取得を統計的に調べた研究も、幕府と諸藩が「自ら取得した艦船を再び売却あるいは相互貸借したり、幕府に献納したりするなど、艦船の活発な移動が行われている」と述べています。徳島藩が幕末から明治初年に持っていた船は、木造帆船の通済丸と、この乾元丸、そして戊辰丸の三隻でした。
乾元丸を船の型と持ち主から読む
乾元丸は蒸気機関を積んだ船ですが、外輪かスクリューかを伝える記録は見つかっていません(外輪とスクリュー)。
当サイトで紹介している徳島藩の船は、この乾元丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ徳島藩の船には、戊辰丸(スクリュー汽船)、通済丸(スクーナー船)があります。
持ち主の徳島藩の幕末をふり返ると、新政府側。明治に入り稲田騒動が起こる。乾元丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。


