小栗忠順の遺児はどう生きたか——会津へ逃げた身重の妻と、三野村・大隈が支えた家

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

慶応四年閏四月六日、小栗忠順は烏川の河原で斬られました。同じ日、養子の又一忠道も高崎で処刑されています。小栗家の男子は、この一日で絶えました。ところが小栗家そのものは絶えていません。斬られた日の夕方に権田村を出た身重の妻が、二か月後に女の子を産んだからです。

この記事では、処刑の翌日から先を追います。残された三人がどこをどう逃げ、生まれた娘を誰が支え、小栗家がどのように再興されたのか。そして、その過程で語られてきた有名な逸話のうち、どこまでが確かめられるのか。斬られた経緯そのものは小栗忠順はなぜ斬られたのかに書きましたので、ここでは触れません。

目次

閏四月六日の夕方、三人が村を出ました

小栗が捕らえられたのは閏四月五日、斬られたのは六日の午前でした。その日の夕方には、もう家族が権田村を離れています。逃げたのは三人です。妻の道子は三十歳で、身重でした。小栗の母のくには六十三歳。もうひとりは又一の許婚だった鉞子で、まだ十五歳です。護衛にあたったのは、中島三左衛門にひきいられた権田村の人たちでした。

雇い主の家族を山越えで落とすというのは、奉公の義理をはるかに超えた話です。大砲を自分から差し出して抵抗の意思がないことを示した小栗を、それでも取り調べなしに斬った側と、その家族を二十日あまりも背負って運んだ側とが、同じ数日のうちに並んでいることになります。

養子の又一忠道は、このとき家族と一緒ではありません。小栗とは別に高崎へ送られ、同じ日に斬られています。家督を継ぐはずだった若者と当主が同時に消えたわけで、この時点で小栗家には、跡を継げる男子がひとりもいなくなりました。残ったのは女三人と、道子の腹の中にいる子だけです。

経路は、日付つきで残っています

逃避行の道筋は、日付までわかっています。閏四月七日に坂上村、八日に六合村広池、十二日に和光原、十三日に渋沢のお助け小屋、十五日からは秋山郷の和山温泉に二泊、二十日に十日町中条村、二十六日の夜に酒屋陣屋、二十八日の朝に津川へ入り、その夜に会津若松へ着いています。しめて二十二日間、善光寺参りの一行を装っての山越えでした。

この道中では、家臣の家族にも犠牲が出ています。高崎市倉渕町岩氷にある「姉妹観音」は、家臣の塚本真彦の幼い娘たちが相間川で亡くなったことを慰霊する像です。足手まといになるのを避けたためと伝えられます。逃げのびた側の記録だけを読んでいると見落としますが、山を越えられなかった家族もいたわけです。

六月十日、南原で国子が生まれました

会津に入った道子は、六月十日に南原の避難所で女の子を産みました。国子です。小栗忠順にとって、ただひとりの実の子でした。母子は会津藩の野戦病院に収容されています。松平容保の計らいだったと伝えられますが、その点を直接示す一次史料は見当たりません。

その会津も落ちます。母子は松川村で冬を越し、明治二年の春に護衛隊が東京を経由して静岡まで送り届けました。夫は殺され、家は取り潰され、頼るべき幕府もない。ここから先を引き受けたのは、小栗家に恩のある二つの家でした。

もっとも、行き場を失ったのは小栗家だけではありません。幕府が消えたとき、旗本や御家人はそろって家禄を断たれました。徳川宗家について静岡へ移った者、新政府に出仕した者、刀を捨てて土地に入った者と道は分かれましたが、いずれにせよ収入の土台は一度なくなっています。まして小栗家は当主を処刑され、家そのものが取り潰された側です。放っておけば消えて当然の家でした。それが消えなかったところに、この話の要点があります。

三野村利左衛門——父の中間だった男が、死ぬまで見ました

ひとつは三野村利左衛門です。もとは小栗の父・忠高の中間、つまり武士ですらない奉公人でした。その男が両替商に入り、才覚ひとつで三井の大番頭にまでなり、幕末には幕府の御用金をめぐって小栗と三井のあいだをつなぐ役を果たしています。奉公人と主家の子という関係が、三十年を経て、幕府の財政をめぐる交渉相手どうしという関係に変わっていたわけです。

三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治十年に自分が死ぬまで面倒を見つづけました。目を引くのは、三野村家の援助がそこで終わっていないことです。「小栗国助情金」という名目の支出が、明治十年四月から明治二十年まで続き、合計で千四百五十円四十二銭六厘にのぼると記録されています。三野村が死んだあとも、家として金を出しつづけたわけです。

ですから「三野村が死んだので大隈重信が引き継いだ」という順番ではありません。三野村家の金は明治二十年まで出つづけており、それとは別に、国子の身柄を引き取る家があらわれた、というのが正しい並びです。

動いたのは大隈重信ではなく、妻の綾子でした

大隈重信が小栗の遺児を引き取った話は、「新政府の実力者が、新政府に殺された幕臣の子を助けた」という筋で語られがちです。ただ、史料が指しているのはもう少し家庭寄りの事情でした。動いたのは大隈本人というより、妻の綾子です。

大隈綾子は嘉永三年の生まれで、旧姓を三枝といいます。八百石の旗本・三枝七四郎頼永の次女でした。小栗研究の第一人者である東善寺の村上泰賢氏が紹介する系譜によると、綾子の母と小栗忠順の父・忠高は、ともに中川家から出た兄妹にあたります。つまり綾子と忠順は、中川家を共通の祖とする従兄妹どうしということになります。忠順が文政十年、綾子が嘉永三年の生まれですから、綾子は二十三歳下の従妹でした。

それ以上に大きいのは、綾子が幼くして父母を亡くし、兄とともに駿河台の小栗忠高の家に身を寄せて六、七年を過ごしたとされることです。小栗家は綾子にとって、親戚というより育ての家でした。小栗上野介とは兄弟のように育った、とも伝えられます。この系譜と養育の経緯は村上氏の著作を経由して広まったもので、三枝家や小栗家の系図の原本にあたって確かめられたわけではありません。兄の名も守富と竜之介で揺れています。とはいえ、なぜ助けたのかという問いへの答えとしては、「従妹だったから」よりはるかに筋が通ります。

明治十八年、母が死に、十六歳の娘が大隈家の養女になりました

引き金になったのは三野村の死ではなく、母・道子の死でした。道子は明治十八年三月二十七日に亡くなっています。四十八歳でした。同じ年、十六歳の国子が大隈家の養女になります。預かりではなく、養女です。この年次については明治十七年とする資料も明治十九年とする資料もあり、そろっていません。

夫を殺され、山を越え、避難所で子を産み、その子を十七年育てて道子は死にました。残された国子には、親がひとりもいなくなったことになります。そこへ、かつて小栗家で育てられた綾子が手をさしのべた、という順番です。

婿に入ったのは、佐伯藩士の子でした

明治十九年十二月、国子は小栗貞雄と結婚し、貞雄が婿養子として小栗家を継ぎました。この貞雄が、旧姓を矢野といい、豊後国海部郡の出、つまり佐伯藩士・矢野光儀の子です。兄は矢野龍渓、名を文雄といいました。

矢野龍渓は大隈の側近中の側近で、郵便報知新聞の社長を務めた人物です。貞雄自身も明治三年に上京して慶應義塾に学び、立憲改進党の弁士として活動し、明治十九年に報知新聞社へ入りました。結婚はその年の十二月ですから、大隈閥・立憲改進党という人脈の内側で縁組が整えられたことになります。「大隈重信と矢野龍渓の強い勧めで」と伝えられますが、なぜ貞雄だったのかを当事者が語った書簡や証言は見当たりません。

貞雄はのちに東京石油の取締役となり、消毒薬を発明して製薬会社を興しています。明治三十一年の第六回総選挙には大分県第二区から憲政本党の公認で立ち、当選しました。一期だけです。国子は体が弱く、夫婦は国府津へ移っています。綾子は何度も手紙や品を送って励ましたと伝えられます。二人のあいだに生まれた子は、又一と名づけられました。又一は小栗家代々の通称で、高崎で斬られた養子と同じ名です。

東郷平八郎の書——物証はあります。台詞は伝承です

明治四十五年の夏、東郷平八郎が自邸に小栗家の人を招き、日本海海戦に勝てたのは小栗さんが横須賀に造船所を造っておいてくれたおかげだ、と礼を述べた。この話は小栗を語るときの定番になっています。

ただ、この逸話には確かな物証と、確かめられない部分とが混ざっています。物証のほうは書です。東郷が「仁義禮智信 爲小栗又一君」と揮毫した一幅が、曾孫の小栗忠人氏から平成九年に東善寺へ寄進され、いまも本堂に掲げられています。宛名に小栗又一の名がある以上、東郷と小栗家に接触があったこと自体は動きません。

一方で、あの台詞そのものを書きとめた日記や書簡、当時の新聞記事は確認できていません。招かれたのは貞雄と又一の父子だったとも、又一ひとりだったとも言われ、そこも一致しません。広く知られるようになったのは、司馬遼太郎の紀行や、東善寺が編んだ本を通してのことです。横須賀製鉄所が日本海海戦の艦隊を支えたことは事実ですが、物証があるからといって台詞まで裏が取れているわけではない、というのが正確なところでしょう。東郷が指揮した旗艦については【現地取材】記念艦三笠と東郷平八郎に書きました。

同じことは、大隈重信が「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」と語ったという有名な一句にも言えます。この発言はあちこちで引かれますが、出典をたどっても元の文献にたどり着けません。大正四年、横須賀海軍工廠の創立五十周年の祝典で、時の首相だった大隈の代理が小栗の功績に触れた、という話もあります。大隈の首相在任期とは合っていますが、式典の記録や新聞記事そのものは確かめられていません。よく語られる話ほど、出どころを書いておく必要があります。

昭和七年、「罪なくして斬らる」と刻まれるまで

小栗の名誉がいつ回復されたのかというと、はっきりした区切りはありません。贈位、つまり明治政府が位を追贈した記録は見当たらず、位を贈られていないこと自体が、地元の顕彰運動でずっと論点でありつづけました。

いまも処刑の地に立つ「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」の碑が建ったのは昭和七年です。撰文と揮毫は蜷川新、小栗の義理の甥にあたるとされる法学博士でした。ただし、この碑はすんなり建ったわけではありません。昭和四年に計画が進んだとき、高崎警察署長から、官軍が罪のない者を斬るはずがない、という趣旨の圧力がかかって頓挫しています。そのあと村の人たちが基金を出しあって実現させました。

斬られてから六十四年。国が位を贈るより先に、村が石を建てたわけです。首を取り返したのも村人でした。小栗という人の評価を最後まで引き受けたのは、中央ではなく権田の側だったことになります。

父子の墓は、いまも並んでいます

東善寺に並ぶ小栗上野介忠順と又一忠道の墓
東善寺に並ぶ小栗上野介忠順と又一忠道の墓

高崎市倉渕町権田の東善寺には、小栗上野介忠順と又一忠道の墓が並んで立っています。群馬県指定の史跡で、標柱にもそのように記されています。父子の名をひとつの石に並べて刻んだ墓碑もあり、石垣に囲まれた一段高い墓所に据えられています。境内には胸像も立っていて、台座には「上野介像」とだけ刻まれています。

会津で生まれた国子から数えて、小栗家はいまも続いています。東郷の書を東善寺に納めたのも、その子孫でした。斬られた当日に権田村を出た三人の逃避行がなければ、この墓に手を合わせる子孫もいなかったことになります。

台座に「上野介像」とだけ刻まれた東善寺の胸像
台座に「上野介像」とだけ刻まれた東善寺の胸像

訪ねるなら

東善寺は群馬県高崎市倉渕町権田にあります。処刑の地である水沼の河原や、小栗が家を建てるつもりだった観音山も、同じ倉渕町のうちです。歩いてまわれる距離ではありませんので、車で移動するほうが確実でしょう。

あわせて読みたい

主な参考資料

  • 村上泰賢『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』平凡社新書
  • マイケル・ワート『明治維新の敗者たち——小栗上野介をめぐる記憶と歴史』野口良平訳、みすず書房
  • 東善寺が公開している小栗家関係の資料
  • 高崎市および館林市の史跡説明板

なお、大隈綾子の系譜と小栗家での養育、東郷平八郎の逸話、大隈の「模倣」発言については、本文中に書いたとおり確認の度合いに差があります。一次史料にあたって裏づけが取れたもの、伝承として広まっているものを、できるかぎり書き分けました。

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