新庄藩の歩み
新庄藩は、慶応三年(1867年)の江戸薩摩藩邸焼討に庄内藩・上山藩・出羽松山藩と共に派兵したが、直接「薩摩藩」とは交戦せず、江戸市中の警備を担当しました。翌慶応四年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では開戦当初に新政府軍の「奥羽鎮撫軍」が新庄に入ったため、新政府軍と共に庄内藩領内へ攻め込むが、逆に迎撃され惨敗しました。この戦いは「清川口の戦い」で、新庄藩兵にとって初めての実戦でした。

同年、「奥羽越列藩同盟」が締結され「新庄藩」もこれに参加しました。同盟後は庄内藩に協力して新政府軍を圧倒したが、新庄藩の北に位置する久保田藩(秋田藩)が新政府軍へ寝返ったことを機に、奥羽越列同盟から離脱しました。
新政府軍を国境で防いでいた「庄内藩」はこの離脱に激怒し、新庄藩に攻撃を加え城を攻め落としました。この戦で城下町の大半が焼失ししまい、藩主「戸沢正実」は久保田藩(秋田藩)へ落ち延びています。
以後、新庄城は新政府軍が庄内藩に反撃するまでの間、庄内藩によって占領されました。明治二年(1869年)、戊辰戦争の終結とともに新政府軍に加わった功により、賞典禄一万五千石を与えられました。同年六月には「版籍奉還」により藩主「戸沢正実」は新庄藩知事となります。
そして明治四年(1871年)の「廃藩置県」にて新庄藩は廃藩となり新庄県となります。そして同年には山形県に編入されました。
角館以来の古い家柄・戸沢家と幼くして継いだ正実
戸沢家は桓武平氏の流れを汲み、中世には出羽仙北の角館を本拠に勢力を築いた古い家柄です。江戸時代初期に戸沢政盛が常陸松岡から新庄へ移封されて以来、代々この地を治めました。幕末の藩主正実は10代藩主正令の長男として生まれましたが、天保十四年(1843年)にわずか12歳で家督を継いだため、祖父にあたる9代藩主正胤の後見を受けています。
戊辰の火を逃れた神社が、城跡に一つ残っています
慶応四年七月十四日、城は城下ごと焼けました
新庄城の落城日は、新庄市の歴史的風致維持向上計画によれば慶応四年(1868年)七月十四日です。新庄市は、城が「市街地もろとも消失してしまいました」と書いています。政治家人名事典によれば、藩主の戸沢正実は「秋田に逃れるが、十月帰城」しました。七月に城を追われ、十月に焼け跡へ戻ったことになります。
そのあと新庄藩は、新庄市の年表によれば明治二年に一万五千石の賞典を受けています。城下を焼かれた藩が、戦後は加増を受けたわけです。→ 久保田藩(秋田藩)
天守は、寛永十三年の火事で失われていました
新庄城には、幕末の時点ですでに天守がありませんでした。新庄市の年表によれば、寛永十三年に「新庄侍屋敷より出火、居城残らず焼失」し、本丸・二の丸・天守櫓が焼け、天守櫓は再建されませんでした。城の完成(寛永二年=1625年)から十一年後のことです。落雷が原因とする説明を見かけることがありますが、新庄市は侍屋敷からの出火と書いています。
その城跡(最上公園、新庄市指定史跡)に、戊辰の火を逃れた建物があります。天満神社の本殿と拝殿で、新庄市によれば寛永五年(1628年)創建、寛文八年(1668年)修復。市の計画書は戊辰戦争での焼失を免れたと書いています。山形県指定有形文化財です。
藩祖の政盛と十一代正実を祀る戸沢神社は明治の創建です(新庄市は明治二十六年創建・翌年完成、別の市の資料は明治二十七年五月鎮座と書いています)。城下の新庄藩主戸沢家墓所は国指定史跡です。
新庄まつりは、飢饉の翌年に藩主が始めたと伝わります
新庄の夏祭り新庄まつりについて、文化遺産オンラインは宝暦六年(1756年)に「前年の飢饉で疲弊した領民を励まそうとした新庄藩主の命により始まったと伝えられる」と書いています。山形県と新庄市の資料は、その藩主を五代の戸沢正諶としています。
国の重要無形民俗文化財「新庄まつりの山車行事」の指定は平成二十一年三月十一日、2016年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。藩が始めた祭りが、藩がなくなって百五十年近くたって世界の遺産に登録されたわけです。
正実は天保三年閏十一月十七日生まれ、明治十七年に子爵となり、明治二十九年八月に没しました(没日は資料により十三日・十六日・十八日と分かれます)。藩校明倫堂の創設は、新庄市が明和年間、日本大百科全書とブリタニカが天明年間としています。→ 上山藩
最上川の舟番所と、藩士の家計—新庄藩の二百五十年
藩祖・戸沢政盛と鳥居家
新庄藩を開いた戸沢政盛は、徳川家康の重臣・鳥居元忠の家と結びつくことで家を保ちました。鳥居家から正室を迎え、跡継ぎには鳥居忠政の次男・定盛を養子に迎えています。慶長七年(1602年)に常陸松岡四万石を与えられましたが、関ヶ原のときの動きが消極的だったとされ、旧領より少ない石高でした。元和八年(1622年)、山形の最上家が改易されると、その旧領の一部、新庄六万石へ移っています。家格は外様ですが、江戸城では帝鑑間に詰めていました。
最上川の番所—芭蕉も改めを受けた
新庄藩は最上川の古口と堀内に川の番所を置いていました。元禄二年(1689年)、『おくのほそ道』の旅の途中の松尾芭蕉と曾良は、本合海から舟で最上川を下り、古口の船番所で改めを受けています。最上川は紅花などの産物を河口の酒田へ運び、そこで北前船に積み替えられました。本合海は、名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています。
人口五万八千から四万五千へ—飢饉と借金
二代正誠は約六十年も藩主を務め、寛文八年(1668年)に家臣の給与を土地から米で払う形に改めました。元禄十六年(1703年)には領内の人口が約五万八千人に達しています。ところが宝暦・天明・天保と飢饉が続き、藩の借金は九万四千両に膨らみ、人口は約四万五千人まで減りました。財政を立て直したのは、家老の吉高勘解由による嘉永の改革で、倹約、養蚕、新田開発に取り組んでいます。
維新の後—加増と、バードが見た新庄
新庄藩は奥羽越列藩同盟から離れて新政府についたため、明治二年(1869年)に一万五千石を加増されました。焼けた城の仮の修理が終わったのは明治三年(1870年)のことです。藩主の戸沢正実は明治十七年(1884年)に子爵となりました。明治十一年(1878年)に新庄を訪れたイギリス人旅行家イザベラ・バードは、戦火から立ち直れない町を「みすぼらしい町」と書き残しています。瑞雲院の境内には、国の史跡「新庄藩主戸沢家墓所」があり、十八世紀の御霊屋が六棟残っています。
「勝ち組」は得をしたのか
新庄藩は新政府側についたことで加増されましたが、そのために庄内藩に攻められて城下を焼かれ、十年たっても町は立ち直れませんでした。「勝ち組」についた藩が、必ずしも得をしたわけではない。バードの一言は、そのことを外から冷静に見ていた記録として、とても重いと思います。
場所・アクセス・地図
新庄の現地を歩いた記録
新庄藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



