【現地取材】浜松城を歩く——「出世城」から老中が二人。水野忠邦と井上正直

野面積みの石垣に載る浜松城天守

静岡県浜松城。徳川家康が二十九歳から四十五歳までの十七年を過ごした城で、通称「出世城」。ここの城主になった者は出世する、という言い伝えのある城です。

この言い伝え、幕末史の観点から見るとまったく侮れません。幕末の浜松城からは、老中が二人出ています。しかもそのうち一人は、日本史の教科書に必ず出てくる人物です。

「浜松城本丸跡」の標柱。木立の中に静かに立っている
「浜松城本丸跡」の標柱。木立の中に静かに立っている
目次

まず、出世城という呼び名について

浜松城公園の案内図。天守・天守門・石垣の位置がわかる
浜松城公園の案内図。天守・天守門・石垣の位置がわかる
公園に立つ徳川家康公の銅像。若き日の家康がこの城で十七年を過ごした
公園に立つ徳川家康公の銅像。若き日の家康がこの城で十七年を過ごした

家康が去ったあと、浜松城は徳川譜代の大名が次々に入る城になりました。そして城主を勤めた家から、老中や大坂城代、京都所司代といった幕府の要職に就く者が相次いだ。だから「出世城」です。

ただの縁起話ではありません。幕府にとって浜松は東海道の要地であり、将来を期待する譜代を置いて経験を積ませる場所だったのだと思います。人事のコースに組み込まれた城、という言い方もできます。

水野忠邦 ― 出世のために、この城へ来た男

「出世城」を地で行った人物といえば、この人です。水野忠邦

驚くのは、彼が自分から浜松へ来たことです。文化十四年(1817)九月、忠邦は実封二十五万三千石の唐津から、実封十五万三千石の浜松への転封を自ら願い出て実現させました。

十万石も減るのに、なぜか。唐津藩には長崎警備の任務があり、それが昇進の障害になるからです。石高を捨てて、出世の道を取った。

そして狙いどおりになります。天保五年(1834)に本丸老中、天保十年(1839)に老中首座。そこから天保の改革——人返し令、奢侈禁止、株仲間解散令。日本史の教科書に載っているあの改革を主導したのは、浜松城主だった男です。

もっとも、終わりは急でした。上知令の断行に失敗し、側近にも背かれて、天保十四年(1843)閏九月十三日に老中を罷免されて失脚。そして弘化二年(1845)九月に一万石没収、十一月三十日に出羽国山形五万石へ転封を命じられます。

ここで思わぬところにつながります。この山形五万石の水野家こそ、山形城で戊辰戦争を迎えた家です。藩主父子が不在のなか、二十代半ばの家老・水野三郎右衛門元宣が藩を背負い、城下を戦火から守って、明治二年に全責任を負って斬首された——あの水野家。

浜松で天下の政治を動かした家が、失脚して山形へ流され、その二十数年後に家老の首で藩を守ることになる。出世城の光と影が、そのまま一つの家の歴史になっています。

井上正直 ― 幕末に老中を二度つとめた最後の藩主

平成に復元された天守門。石垣の上に載る堂々たる櫓門である
平成に復元された天守門。石垣の上に載る堂々たる櫓門である
別角度から。門をくぐると本丸へ入る
別角度から。門をくぐると本丸へ入る

水野家が去ったあと、浜松には井上家が入ります。そして幕末の藩主が井上正直(いのうえ まさなお)天保八年(1837)十月二十九日の生まれで、弘化四年(1847)四月二十二日、わずか十歳ほどで藩主を継ぎました。

この人の履歴が、そのまま幕末の外交史です。

安政五年(1858)に奏者番、文久元年(1861)に寺社奉行を兼帯。そして文久二年(1862)十月九日、老中に就任します。二十五歳ほどでの老中です。

就任の翌年、文久三年(1863)二月十二日には「外国御用取扱」を兼帯しました。攘夷の嵐が吹き荒れ、長州が下関で外国船を砲撃し、薩英戦争が起きた、あの年です。その真っただ中で外交の実務を預かったのが浜松藩主でした。

一度目の老中は元治元年(1864)七月十二日まで。そして慶応元年(1865)十一月二十六日に再任され、このときも外国御用取扱を兼帯します。慶応二年(1866)には勝手入用掛——幕府の財政を扱う職——も兼ねました。二度目の老中は慶応三年(1867)六月十七日まで

つまり井上正直は、通商条約の運用、攘夷の後始末、第二次長州征討、そして幕府財政の破綻という、幕末でいちばん苦しい局面の実務を二度にわたって担ったことになります。大政奉還のわずか四か月前まで、老中の席にいた人です。

これも沼津の水野忠誠掛川の太田資始と同じで、遠州・駿河の譜代が幕府の最後を支えていたという構図です。東海道沿いのこの一帯は、幕閣の供給地でした。

そして、房総へ

石垣ぎわの階段を上がる。本丸への登り道である
石垣ぎわの階段を上がる。本丸への登り道である

幕府が倒れると、井上家の運命も他の駿遠の譜代と同じでした。

徳川宗家が駿府藩(静岡藩)七十万石へ移されるにあたり、その場所を空けるため、駿河・遠江の譜代大名はまとめて房総へ移されます。明治元年(1868)九月二十三日、井上正直は上総鶴舞へ転封となりました(浜松藩鶴舞藩)。

沼津の水野家は上総菊間へ。掛川の太田家は上総柴山へ。そして浜松の井上家は上総鶴舞へ。老中を出した三つの城が、そろって同じ年に房総へ送られたわけです。

正直はその後、明治三十七年(1904)三月九日に六十八歳で世を去りました。十歳で藩主となり、二十五歳で老中となり、三十一歳で城を失った人生です。

石垣を見に行く価値がある城

浜松城の野面積み。自然石をほとんど加工せずに組み上げてある
浜松城の野面積み。自然石をほとんど加工せずに組み上げてある

浜松城で、いちばん見てほしいのは石垣です。

野面積み(のづらづみ)——自然石をほとんど加工せずに積み上げる、いちばん古い技法です。石と石のあいだに隙間があり、そこに小さな石を詰めてある。松坂城の野面積みも見事でしたが、浜松のそれはもっと荒い。角ばった石がごろごろと積み重なって、いまにも崩れそうに見えるのに四百年以上立っている。

石はこのあたりで採れる珪岩だそうです。加工が難しい硬い石を、加工せずに使った。技術がなかったというより、この石ならこう積むのが正しいという判断だったのだと思います。

野面積みの石垣に載る天守。石垣の荒さと天守の白さの対比が面白い
野面積みの石垣に載る天守。石垣の荒さと天守の白さの対比が面白い
天守を正面から。こちらは昭和の再建である
天守を正面から。こちらは昭和の再建である

天守について、正直に書いておきます。いま建っている天守は昭和三十三年(1958)の再建で、鉄筋コンクリート造です。そもそも江戸期の浜松城に天守があったかどうかも、はっきりしていません。

ただし天守門は違います。こちらは発掘調査と絵図に基づいて平成二十六年(2014)に木造で復元されたもので、石垣の上に載る堂々たる櫓門です。掛川城の木造復元天守と同じ考え方で、近年の城郭復元はこの方向に進んでいます。

そして天守台の石垣そのものは本物。石垣は家康の時代、門は平成、天守は昭和。三つの時代が一か所に積み上がっている城です。

歩いてみて

浜松城は、家康の城として語られることが圧倒的に多い城です。実際、公園の銅像も家康ですし、大河ドラマのたびに人が押し寄せる。

けれども幕末歴史ガイドとして歩くと、まったく別の城が立ち上がってきます。石高を捨ててまで出世を選び、天保の改革を主導して失脚した水野忠邦。十歳で藩主になり、二十五歳で老中になり、攘夷の嵐のなかで外交の実務を握った井上正直。そして明治元年、房総へ。

「出世城」という愛称は、明るい言葉です。でもその出世の先で、水野忠邦は失脚して山形へ流され、井上正直は幕府の破綻を最後まで見届けることになった。出世した先に何が待っていたかまで含めて、この城の物語なのだと思います。

野面積みの石垣に手を触れながら、そんなことを考えていました。石は何も語りませんが、四百年ずっとここにあります。

アクセスと地図

浜松城(浜松城公園)/静岡県浜松市中央区元城町。JR浜松駅からバスで約六分、または徒歩約二十分。公園は入園無料、天守と天守門は有料(共通券)。野面積みの石垣は天守台の周囲をぐるりと回って見てください——角度によって表情がまったく変わります。市役所のすぐ隣という立地なので、街歩きのついでに寄れます。

あわせて読みたい

あわせて読みたい(現地取材)

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「浜松城本丸跡」

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次