| 安済丸 | |||
| 藩名 | 弘前藩 | ||
| 藩主 | 津軽承昭 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
安済丸は慶應2年(1866年)の正月に完成した国産の洋式帆船です。試運転も終わり、乗員55名を載せて6月21日に青森を出航し、7月30日には品川に入港しました。
安済丸は長さ21間4尺、幅5間2尺の660石でカノン砲2門と小銃12挺を積んでいたと伝わります。21間というと約38メートルくらいで、排水量でいえば300トン程度の小型船であるが、君沢型(幕府建造)を主体とした当時の国産船としては20間を越える船は大きい方です。
安済丸は建造後、慶應4年(1868年)9月からは江戸藩邸の藩士の国元引き上げに従事し、その後「函館戦争」では物資、人員の輸送に活躍しました。
所属した弘前藩と幕末の動き
この軍艦・安済丸を運用したのは、陸奥の弘前藩(津軽家)です。津軽地方を治めた外様の藩で、洋式の船で北辺の海防にあたりました。
幕末の弘前藩は、東北の多くの藩と同じく奥羽越列藩同盟に加わりましたが、のちに離脱して新政府方へと転じました。以後は官軍として、同盟側の庄内藩攻めや、箱館戦争にも藩兵を送っています。北の外れにありながら、時流を見て新政府の側についた藩でした。安済丸は、その弘前藩が持った一隻です。
幕末軍艦一覧リスト
青森から品川まで、四十日かかりました
慶応二年の正月に出来上がった安済丸は、試運転を済ませて六月二十一日に青森を出港し、品川に入ったのが七月三十日でした。四十日ほどかかっています。乗っていたのは五十五人。長さ二十一間四尺・幅五間二尺の六百六十石積みで、カノン砲二門と小銃十二挺を積んでいました。この記事が書くとおり、君沢形を中心とした当時の国産船のなかでは、二十間を超える大きなほうの船です。
弘前藩が自前で造りました
北の海を預かる弘前藩が、外国から買うのではなく自前で洋式の船を仕立てたことになります。同じ時期に国産の洋式船を造った例としては、幕府の箱館奉行所が造った函館丸や龜田丸、越前大野藩の大野丸、姫路藩の速鳥丸などがありますが、いずれも蝦夷地や瀬戸内を見すえた船でした。安済丸もまた、津軽の海を守るために造られた一隻です。
藩士を国元へ運び、箱館の戦いへ
慶応四年九月からは江戸の藩邸にいた藩士たちを国元へ引き上げさせる仕事にあたり、そのあと箱館戦争では物資と人を運びました。なおこの記事の表は藩主を津軽順承としていましたが、順承は安政六年に隠居した先代です。慶応二年にこの船が出来たときの藩主は津軽承昭ですので、表を改めました。

