陸奥宗光 宛
| 原文 |
| 彼吉田の千両を以て、家を御求の御論おもしろそふなれども、是必、前門の虎は退ぞけしに後門の狼の入り来り候咄しならんか。はたして大兄ニも御見付ハ無き事と奉察候。草々、奉対早々頓首。十六日楳陸奥大先生 |
| 現代文 |
| 吉田の千両を持って、家を求める話は面白いけど、これは必ず、門前の虎は退けられても、門後の狼は入ってくるような話にはならんかね。はたして、大兄(陸奥宗光)でも見つけられないと推察します。取り急ぎお返事まで。16日陸奥大先生(陸奥宗光) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「吉田の千両で家を買う話は面白いが、前門の虎を退けても後門から狼が入るような話にならないか。別の案を」と、陸奥の計画にユーモアを交えて再考を促す手紙です。「前門の虎、後門の狼」の故事を引く軽妙さに、龍馬の人柄がよく表れています。十六日付。年は不明ですが、腹心の陸奥と気軽に知恵を出し合った海援隊期のものとみられます。
宛先「陸奥宗光」とは

陸奥宗光は紀州出身で、海援隊における龍馬の腹心でした。実務と交渉の才に長け、維新後は外務大臣として条約改正を成し遂げ「カミソリ大臣」と呼ばれます。龍馬とは軽口も言い合える近しい間柄でした。
この手紙が書かれたころ
海援隊を率い、資金や事業の相談に日々知恵をめぐらせていた時期です。腹心の陸奥を相手に、機知に富んだ助言を送っています。志士たちの活動は、政治だけでなく資金や事業の判断の連続でした。実務の巧拙が、そのまま活動の成否を分けました。海援隊は土佐藩の外郭として交易や海運を担いました。龍馬はその舵取りを、腹心たちと相談しながら進めていました。
イカルス号事件のさなか、陸奥をたしなめる
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年八月十六日のものとしています。長崎でイカルス号事件の談判が続いていた時期です。あの吉田の千両で家を買おうという話は面白そうだが、きっと「前門の虎は退けたが後門の狼が入ってくる」話になるだろう、あなたもよい見込みがあるわけではあるまい—陸奥宗光の思いつきを、龍馬が軽くたしなめています。
「吉田の千両」が何の金なのかはわかっていません。ただ、龍馬が陸奥を「大先生」と呼び、からかい半分に意見しているところに、二人の間柄がよく出ています。陸奥は紀州藩を脱けて海援隊に加わった人で、のちに外務大臣となり伯爵になりました。宮地の本文には出典として『佐々木高行日記』とも記されていて、受け取った陸奥の側ではなく、隊を監督していた佐々木 高行の記録にも写しが残ったことになります。
同じころの京都—原市之進の暗殺
京都では この手紙の二日前、慶応三年(1867)八月十四日、将軍慶喜の側近として兵庫開港などを進めた幕臣・原市之進が、京都の自宅で暗殺されました。斬ったのは幕府の開国の方針に反発した幕臣たちだったと伝えられます。慶喜の改革を支えた知恵袋の死は、幕府の内部にも大きな対立があったことを示しています。
宛名の陸奥宗光 陸奥は紀州藩の重臣の家に生まれ、父が藩の政争に敗れたのちに脱藩して、龍馬の海援隊に加わった人物です。龍馬は陸奥の才能を高く評価し、維新後の陸奥は外務大臣として不平等条約の改正に力を尽くしました。
慶応三年八月中旬、龍馬と陸奥、土佐の動き
海援隊の中の陸奥陽之助
宛先の陸奥宗光(当時は陽之助)は、紀州藩士の家に生まれ、龍馬のもとに加わった人物です。慶応三年には「商方之愚案」を出し、海援隊の商いの部門を任されました。龍馬が陸奥の話を面白がりながらも、うまい話の裏を突いてたしなめるこの手紙には、才気のある年下の隊士への信頼と、気がかりの両方が表れています。
土佐で始まったイカルス号の調べ
この八月、英国公使パークスは、水夫殺害の犯人を海援隊とみて強く抗議していました。調べは土佐の須崎で始まり、後藤象二郎は「証拠があれば処罰する」と答えています。その後、調べは長崎へ移されました。土佐藩にとっては、手を結んだばかりの海援隊が外交問題の渦中に立たされる事態でした。のちに真犯人は福岡藩士と分かり、海援隊の嫌疑は晴れています。
高知の姉・乙女
龍馬が最も多くの手紙を送った相手は、三つ上の姉・乙女です。乙女は安政三年に典医の岡上樹庵に嫁ぎました。しかし、この慶応三年に離縁して坂本家に戻ったとされます。龍馬はこのころの乙女に宛てて、自分の仕事ぶりや考えをのびのびと書き送っています。
坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の104通目/全135通)
手紙の一覧に戻る / 亀山社中と海援隊 / 海援隊士一覧 / 近江屋跡(現地取材)
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



