岡内俊太郎 宛
| 原文 |
| 彼長の船は廿三日出帆ニ相成候よし、其心積奉願候。廿一日龍馬佐々木三四郎様御同宿岡内俊太郎様楳拝 |
| 現代文 |
| 長州の船は23日出港なので、そのつもりでいて下さい。21日龍馬佐々木三四郎様御同宿岡内俊太郎様(土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「長州の船は二十三日に出港するので、そのつもりでいてほしい」と船の出港予定を知らせる短い連絡です。宛名には「佐々木三四郎様御同宿」と書き添えられており、土佐の同志と行動を共にしていた様子がうかがえます。日付は「二十一日」とあるだけで年は特定できませんが、龍馬が長州藩の船まで差配して海運に深く関わった海援隊のころ(慶応年間)の一通とみられます。
宛先「岡内俊太郎」とは
岡内俊太郎(おかうち しゅんたろう)は土佐藩士で、龍馬の周辺で連絡や取次ぎを担った人物です。維新後は明治政府に出仕しました。龍馬と本国土佐をつなぐ実務の人脈のひとりで、こうした細かな連絡を託される間柄でした。
この手紙が書かれたころ
長崎と下関を拠点に、船で人と物資を動かす海援隊を率いていた時期です。長州の船の出港をこまやかに気にかけるのは、海運業を営む龍馬ならではの日常でした。脱藩浪士の身でありながら、諸藩の船を動かす立場にあったことがわかります。慶応二年(1866)の薩長同盟以降、長州と諸藩を海路で結ぶ動きが加速していました。船の往来はそのまま、倒幕へ向かう人と武器の流れでもありました。このころ土佐藩では後藤象二郎が台頭し、武力によらぬ「公議政体」への道を探り始めます。龍馬の海援隊は土佐藩の外郭として海運と交易を担う存在になっていました。
宛名は、原本では「岳内」と書かれています
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年八月二十一日のものとしています。長州の船は二十三日に出帆することになったので、そのつもりでいてほしい—という短い知らせです。宮地の本文では、宛名が「岳内(ママ)俊太郎様」となっていて、龍馬が「岡内」を「岳内」と書き誤っていたことが分かります。当サイトは「岡内」に直して載せています。
この手紙は、同じ岡内 俊太郎に宛てた十九日と二十三日の手紙のあいだにあたります。十九日には仲間を呼び集め、二十一日には船の出る日を知らせ、二十三日には体を悪くして来てほしいと頼む。宛名はいずれも「佐々木三四郎様御同宿」で、岡内が土佐藩の大監察佐々木 高行と同じ宿にいたことも共通しています。イカルス号事件の談判のさなか、四日のうちに三通。龍馬が岡内を連絡の窓口にして動いていた様子がよく分かります。宮地は出典を「瑞山会文書」としています。
同じころの土佐—武力か、建白か
土佐では 慶応三年(1867)の夏、土佐の藩論は揺れていました。京都で薩土盟約を結んだ後藤象二郎は、七月に土佐へ戻って大政奉還の建白を前藩主・山内容堂に説き、容堂もこれを受け入れます。一方、乾(板垣)退助のように、薩摩と結んで武力で幕府を倒そうと考える者たちもいました。土佐藩は、話し合いと武力の二つの道のあいだで進路を探っていたのです。
宛名の岡内俊太郎 岡内は土佐藩士で、長崎で龍馬と土佐藩をつなぐ連絡役をつとめた人物です。八月の龍馬の手紙に何度も名前が出てくることから、龍馬がこの時期とくに頼りにしていたことがわかります。
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