三吉慎蔵 宛
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近時新聞 以上五条二月廿二日認龍馬慎蔵先生足下 |
| 現代文 |
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最近お聞きしたこと。 以上5ヶ条です。2月22日龍馬慎蔵先生(長府藩士:三吉慎蔵) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
長府藩士・三吉慎蔵へ宛てた情勢報告で、耳にした薩摩の動きを箇条書きで伝えています。大山格之助が下関に来ること、西郷吉之助が薩摩藩主の上京準備のため帰国すること、そして幕府がしきりに薩摩に媚びを売っているが、将軍はよほどの覚悟で普段と違う様子であることなど、緊迫する政局の空気を伝えています。倒幕へ向けて水面下で動く薩摩の姿がうかがえる一通です。
宛先「三吉慎蔵」とはどんな人物か
長府藩の藩士で、寺田屋事件で龍馬を救った槍術の名手です。龍馬が政局の生きた情報を、率直に伝え合える信頼の相手でした。
この手紙が書かれたころ
薩摩・長州・土佐の動きを結びつけ、情勢の結節点として動いていたころの龍馬です。各藩の要人の往来を細かく把握し、来たるべき大きな政変を見据えていました。薩摩が藩主の上京を準備し、四侯を京に集めて幕政を動かそうとするなど、倒幕への布石が進んでいました。幕府はなお踏みとどまろうとしますが、その足元は大きく揺らいでいました。この時期、土佐藩も薩摩と結んで中央政局へ乗り出そうとしていました。龍馬はその橋渡し役として、薩摩と土佐の連携を進めていきます。
下関で書き留めた「五卿御帰京」のうわさと、その後の実際
「二月廿二日」とだけ記されたこの情報メモを、宮地佐一郎は慶応三年と比定し、『龍馬の手紙』の五十六番に収めています。六日前の二月十六日付けの三吉宛て(五十五番)で、龍馬は十日に長崎から下関の伊藤助太夫方へ戻ったこと、妻の置き所に困って連れてきたことを知らせています。「廿日関ニ来ル」とある大山格之助との面会は、この下関滞在中のことになります。原本は、宮地の本の写真説明によれば長府博物館の所蔵です。
手紙は、朝廷が三条実美ら五卿の帰京を命じたと伝え、大山が筑前へ渡るのもそのためだと記しています。ただし龍馬は「被仰出候よし」と、あくまで伝え聞いた話として書いています。国立国会図書館国際子ども図書館の解説では、三条が京都へ戻るのは王政復古の後とされており、この時点ではまだ実現していません。最後の条の、幕府が米国から軍艦を船員ごと借り入れるという話も、幕府側の原一之進が語ったこととして、出どころを添えて書き留めています。
同じころの土佐藩—商いと軍備の強化
土佐藩では 慶応三年(1867)の初め、土佐藩は長崎の土佐商会を通じて、樟脳や紙・鰹節などの国産品を売り、その代金で蒸気船や洋式銃を買い入れていました。商会の実務を担ったのは岩崎弥太郎です。藩は龍馬の亀山社中を藩の外郭の組織として取り込み、海の仕事を任せることにしました。四月に生まれる海援隊です。
三吉慎蔵と龍馬 龍馬は長府の三吉慎蔵に宛てて、こうした新しい動きを知らせています。脱藩浪士だった龍馬が、藩の後ろ盾を得て大きな仕事に乗り出そうとしていた時期の一通です。
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