伊藤助太夫 宛
| 原文 |
| 私の志し実ニ十二ぶんもはこび申候間、則大兄ニも兼而御同意の事故、天下の大幸と御よろこび可被遣候。何夕方までの内、御咄し仕候。又商会のものも御引合仕候。四日 草々頓首。九三老兄御直披龍 |
| 現代文 |
| 私の志は実に十二分に運んでおります。すなわち、貴方も兼ねてご同意のことで天下の幸いとお喜びかと思います。何れ、夕方までの間お話しましょう。また、土佐商会のものも引き合わせます。4日龍馬九三老兄(伊藤助太夫)へ |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「私の志は実に十二分に運んでいます。かねてご同意のことで、天下の大幸とお喜びください」と、大きな成功を分かち合う高揚した手紙です。具体名はありませんが、宮地佐一郎は慶応三年三月のものと推定しています。土佐商会の者も引き合わせるとあり、公私にわたる充実ぶりが伝わります。四日付。
宛先「伊藤助太夫」とは
伊藤助太夫は下関の豪商・船問屋で、龍馬に宿と資金を提供した支援者です。志を分かち合う相手として、龍馬から厚い信頼を寄せられていました。
この手紙が書かれたころ
慶応三年、龍馬の構想が次々と形になっていく時期でした。支援者と喜びを分かち合う言葉に、長年の目標が実を結びつつある確かな手応えがにじみます。この年の十月には大政奉還が実現し、龍馬の理想が現実の政治を動かしていきました。「天下の大幸」という言葉が、その大きな流れを予感させます。土佐藩は後藤象二郎を中心に大政奉還を建白し、龍馬の構想がついに藩論として結実していきました。浪士の理想が藩を動かした瞬間でした。
「志が十二分に運んだ」のは何だったのか
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を年月未詳としたうえで、慶応三年三月ごろと推定しています。私の志が十二分に運んだ、あなたも前から賛成してくれていたことなので「天下の大幸」と喜んでほしい—伊藤九三に宛てて、弾むような調子で書いています。
何が運んだのかは、手紙には書かれていません。宮地の推定どおり慶応三年三月だとすると、手がかりになるのは同じ月の六日付で印藤聿に宛てた手紙です。そこには竹島へ渡る計画のこと、大洲藩の蒸気船を三月十五日から四月一日まで借りる約束をしたこと、そして「伊藤助太夫事、別ニ小弟の志を憐ミ」、伊藤がこの志にとりわけ共感してくれていることが書かれています。伊藤が「兼ねて御同意」だった志とは、この竹島行きのことだったのかもしれません。ただしそう言い切れる材料はなく、推し量りにとどまります。借りた船が伊呂波丸で、四月二十三日に沈むことになるのは、この喜びの手紙から一か月ほど後のことでした。
宛名の伊藤助太夫と、下関の本陣・伊藤家
大名が泊まる宿の主 伊藤助太夫は、長門の下関(赤間関)で代々「本陣」をつとめた伊藤家の当主です。本陣は参勤交代の大名や幕府の役人が泊まる公の宿で、伊藤家は町の大年寄も兼ねる、下関きっての旧家でした。江戸時代の後半には、オランダ商館の医師シーボルトが江戸へ向かう途中にこの伊藤家に泊まったことも知られています。龍馬は伊藤のことを、その号から「九三(きゅうぞう)」と呼んでいました。
龍馬を支えた町の商人 下関は、長崎と大坂・京都を結ぶ船の道の要で、長州藩の支藩・長府藩の領内にありました。龍馬にとって伊藤家は、船と人と手紙の中継ぎの場所であり、伊藤自身も龍馬の構想に早くから賛同していたことが、この手紙の書きぶりからもうかがえます。当サイトには龍馬が伊藤に宛てた手紙が二十通近くあり、龍馬の手紙の宛先のなかでも、とりわけ多い一人です。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

