伊藤助太夫 宛(67通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

伊藤助太夫 宛

原文
玄道先生唯今御入来相成候、依而雅兄早々御出被下ず候てハ、天下の儀論初りかね申候。何卒御足おす〃めさせたまへと申すハ十六日龍馬伊藤先生坂本足下
現代文
森玄道先生がただいま到着しましたので、伊藤先生にも早くお出でいただかないと、天下の議論が始められません。何卒お急ぎください。16日龍馬伊藤先生坂本

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「森玄道先生が到着したので、伊藤先生も早く来てほしい。天下の議論が始まる」と、時局を論じる会合への参加を急かす短信です。日付は「十六日」のみで年は不明ですが、龍馬が下関で政局を語り合っていた慶応年間のものとみられます。単なる雑談ではなく「天下の議論」と記すあたりに、時代の緊張感がにじみます。

宛先「伊藤助太夫」とは

伊藤助太夫は下関の豪商・船問屋で、龍馬に宿と資金を提供した有力な支援者です。妻お龍をあずかったことでも知られ、龍馬の下関での活動を物心両面で支えました。時局を語る場にも同席する、単なる商人にとどまらない存在でした。

この手紙が書かれたころ

下関を拠点に、諸藩の志士や協力者と頻繁に会し、情勢を論じていた時期です。人を集めて「天下」を語ることが、龍馬の日常の一部になっていました。薩長同盟の成立を機に、倒幕へ向けた議論が各地で熱を帯びていました。下関はその西国側の中心のひとつでした。土佐藩は公議政体論を掲げ、武力倒幕とは異なる道を探っていました。龍馬の議論の場には、そうした土佐の立場も反映されていたと考えられます。

「天下の儀論」が始まらない

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年二月ごろのものと推定しています。書簡にあるのは「十六日」だけで、年月は宮地の推定です。玄道先生がいま来られたので、あなたが急いで来てくれなければ「天下の儀論」が始まらない、どうか足を運んでほしい—下関の伊藤助太夫を呼び出す、せっかちな一筆です。

玄道先生は森玄道のことで、伊藤と並んで龍馬が下関で親しくしていた人でした。龍馬はこの二人を連名の宛先にした手紙も残しています。ただし森玄道がどういう人だったのかを記した公の解説は見つけられませんでした。「天下の儀論」と大げさに書いているところに、龍馬の口ぶりがよく出ています。下関の伊藤邸には龍馬の部屋「自然堂」があり、人が集まると、そこで国の行く末が語られたのでしょう。慶応三年二月は、長崎で後藤象二郎と会ったあと、土佐藩との手を結び直そうとしていた時期にあたります。

同じころの長州—病床の高杉晋作

長州では 慶応三年(1867)の初め、前年の四境戦争で長州を勝利に導いた高杉晋作は、結核のため下関で病の床についていました。高杉が亡くなるのは四月十四日、二十九歳(数え)のことです。龍馬が下関で暮らしたこの時期、同じ町で長州の英雄は最期の日々を過ごしていました。

龍馬と下関 宛名の伊藤助太夫は下関の大年寄をつとめた豪商で、龍馬はその屋敷を拠点に長崎・京都と行き来していました。高杉の奇兵隊を支えた下関の白石正一郎と同じく、町の商人たちが志士たちの活動を支えていたことがわかります。

坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の67通目/全135通)

◀ 前の手紙:三吉慎蔵 宛
次の手紙 ▶:三吉慎蔵 宛

助太夫あては、残っている数が多い

龍馬の手紙を宛先別に数えると、伊藤助太夫あては目立って多く、十四通ほどが伝わっています。家族あてを除けば、ひとりの相手に送った数としてはかなりの量です。

多い理由は、関係の長さと近さにあります。山口県立山口図書館の資料展示の解説によりますと、助太夫すなわち伊藤九三は下関の本陣当主で龍馬の経済的支援者、そして慶応元年以来、龍馬は下関に来るたび伊藤家を宿にしていたとされます。慶応三年二月には下関に住むことを認められ、伊藤家でお龍と過ごしました。

そのうえで、残り方そのものにも理由があるはずです。宿であり支援者であり、しかも代々の本陣という家ですから、紙を取っておく習慣と場所があった。志士の家が焼けたり散ったりしたのに対して、商家の文書は残りやすい。龍馬の言葉が多く伝わっている相手が長崎や下関の商人に偏っているのは、偶然ではないと思います。

森玄道との連名の手紙もある

助太夫あての書簡を並べていくと、森玄道と助太夫の二人あてという形の手紙も混じっています。慶応二年の夏のものです。

一人に書くのではなく二人に宛てる。下関側で龍馬の用を受けていたのが助太夫ひとりではなかったことが、この宛名の書き方から分かります。

現存する龍馬の手紙は「百四十通あまり」

全体の数も押さえておきます。京都国立博物館は龍馬の手紙について「現在、百四十通あまり確認されています」と記しています。

そのうち十四通ほどが伊藤助太夫あてですから、残っている龍馬の手紙の十通に一通は下関のこの商人に書かれたものだということになります。

ちなみに京都国立博物館が所蔵する重要文化財「坂本龍馬関係資料」は六巻四点で、平成十一年六月七日の指定。内訳は龍馬自筆の書翰九点と龍馬あての書翰三点、ほかに記録類と遺品です。百四十通あまりが各地に散っているなかの、九点ということになります。

参考資料

伊藤助太夫(九三)の立場と龍馬の下関滞在は山口県立山口図書館の資料展示解説、現存書簡が百四十通あまりであることと重要文化財の員数・内訳は京都国立博物館および文化遺産オンライン(国指定文化財等データベース)によります。宛先ごとの通数は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』を底本とする翻刻の索引から数えた参考値で、文庫本体の収録数は公的機関の書誌では確認できません。

手紙の一覧に戻る / 亀山社中と海援隊 / 海援隊士一覧 / 近江屋跡(現地取材)

坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

坂本龍馬の手紙の一覧を見る

  • URLをコピーしました!
目次