鳳凰丸【江戸幕府 バーク級輸送船 幕末軍艦】

鳳凰丸
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 バーク級輸送船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 スケッチ
鳳凰丸
鳳凰丸の姿(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

「鳳凰丸」幕府が建造した日本で最初の洋式帆走艦船です。竣工翌日の嘉永七年(1854年)六月七日に試験航海を無事に終えました。翌、安政二年(1855年)四月十八日に老中や若年寄ら幕府要人の観閲を受けた際には、高度な逆風航行や射撃演習なども行い、非常に好評でした。この時は、浦賀奉行所の中島・佐々倉の両名が副将(副長)として指揮を執りました。

鳳凰丸は軍艦として造り始められましたが、そのころには軍艦の主流はすでに蒸気船に移っており、完成した時点で古い型の船でした。そのため主に物を運ぶ船として使われ、慶応二年(1866年)には石川島の造船所で大きな修理を受けています。勝海舟は、このとき豊島形に改造されたと伝えていますが、確かなことは分かっていません。

戊辰戦争のとき、鳳凰丸は太江丸とともに輸送船として仙台藩に貸し出されていました。榎本武揚の率いる旧幕府の艦隊が仙台に立ち寄ったときに返され、そのまま榎本艦隊に輸送船として加わります。明治元年(1868年)十二月一日に宮古湾を発ち、三日にはほかの七隻とともに蝦夷地の鷲ノ木に着いて、乗せていた部隊を上陸させました。

その後の箱館戦争を生き延び、五稜郭陥落後の明治二年(1869年)七月十五日に室蘭駐屯の開拓方305名を乗せて砂原村へ赴き、新政府軍に投降しました。明治政府では初めは兵部省に在籍したが、まもなく大蔵省へと移管されました。

目次

大船建造解禁後、初の国産洋式軍艦「鳳凰丸」

鳳凰丸は、ペリー来航を受けて幕府が大船建造の禁を解いた直後、浦賀で建造された洋式帆走軍艦です。嘉永七年(1854年)に竣工しました。長らく大型船の建造を禁じてきた幕府が、自らの手で西洋式の軍艦をつくり上げた、記念すべき第一号にあたります。

国防への転換を象徴する一隻

黒船の圧倒的な威容を目の当たりにした幕府は、鎖国下で続けてきた海防のあり方を根本から転換せざるを得なくなりました。鳳凰丸の建造は、その転換を形にしたものであり、以後の幕府海軍の建設や各藩の造船熱の先駆けとなりました。輸送・警備などに用いられ、幕末の海防体制の一翼を担っています。

鳳凰丸をもっと深く—大船建造の禁が解けて、最初に完成した洋式軍艦

八か月で造り上げた

嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に現れた年、幕府は二百年以上続いた大船建造の禁を解きました。外洋を走れる大きな船を造ってはならない、という決まりが消えたのです。

その年の九月に浦賀で起工され、翌嘉永七年五月に竣工したのが鳳凰丸です。工期はおよそ八か月。禁が解けてから最初に完成した洋式軍艦がこの船でした。昌平丸の起工のほうが三か月早かったが、完成は鳳凰丸が先です。

建造には中島三郎助ら浦賀奉行所の与力・同心が関わりました。もっとも、彼らの役割は管理面が中心で、実際の設計は船大工が担ったとする見方もある(諸説あり)。二百年ぶりの仕事を、誰がどこまで担えたのかは、いまも議論があります。

建造 日本・浦賀(1854年竣工)
排水量 約600トン(推定)
形式 3本マストのバーク型帆船
推進 帆走のみ(機関なし)
全長 約36.4メートル
備砲 10門(竣工時は4門のみ搭載)

百年後に、評価が覆った船

鳳凰丸は、竜骨と肋材という西洋式の骨組みを持ちながら、和船の技術も多く取り入れた混合構造でした。

この点を勝海舟らは酷評しています。外観を西洋風にしただけの和船で、実用性はない、と。長らくその評価が通っていました。

ところが1966年に当時の造船記録が発見されると、話が変わります。石井謙治や安達裕之といった研究者は、記録の内容から「十分に堅固な洋式船」だったと評価を改めました。百年以上たってから見直された船である(評価については諸説あり)。

安政二年四月、品川沖で老中・阿部正弘らが検分した際には、逆風での航行や射撃演習を披露し、「良好」と評されています。少なくとも当時の幕閣の目には、使える船と映っていました。

箱館まで行って、生きて帰った

慶応二年に石川島で大修理を受けた鳳凰丸は、戊辰戦争では仙台藩に輸送船として貸し出され、のち榎本艦隊に加わって蝦夷地の鷲ノ木へ渡りました。

そして箱館戦争を生き延びます。明治二年七月、室蘭に駐屯していた開拓方三百五名を乗せて新政府軍に投降しました。

開陽丸は暴風で座礁し、千代田形は暗礁に乗り上げ、回天丸は焼けました。榎本艦隊の艦がつぎつぎに失われるなかで、この帆船は生き残っています。蒸気機関がないぶん、故障で動けなくなることもありませんでした。最新であることが、必ずしも生存につながらなかったという話です。

鳳凰丸を船の型と持ち主から読む

鳳凰丸には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「バーク級輸送船」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装を持つ人や荷を運ぶ輸送船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この鳳凰丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、震天丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)、君澤形丸(スクーナー帆船)などがあります。

同じころの浦賀—中島三郎助

浦賀の与力

鳳凰丸は、浦賀奉行所が造った日本で最初期の洋式の帆船です。その建造の中心となったのが、浦賀奉行所の与力・中島三郎助でした。三郎助はペリー来航のときに最初に艦隊を訪れて応対した役人の一人で、その後、長崎の海軍伝習所でも学んでいます。

箱館での最期

三郎助は幕府が倒れたあとも榎本武揚とともに箱館へ渡り、箱館戦争の最後の局面で、千代ヶ岡の陣屋を守って二人の息子とともに戦死しました。明治二年(1869)五月十六日、五稜郭が明け渡される二日前のことです。日本の洋式船のはじまりにかかわった人は、幕府の海軍の最後まで戦い抜いたのです。

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