中島藩/稲葉家4万5千700石:稲葉紀通 丹波福知山藩へ移封のため廃藩

中島藩 稲葉家4万5千700石 最後の藩主 稲葉紀通
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中島藩の歩み

元和二年とも同3年とも言われているが、伊勢田丸藩四万五千七百石より移封された稲葉紀通が中島に入ることで、中島藩が立藩しました。しかし史料が乏しく、藩政などは明らかではありません。寛永元年(1624年)九月に紀通は丹波福知山藩に移封され、中島藩は廃藩となりました。

大坂の北にあった、四万五千石の藩です

中島藩があったのは摂津国—いまの大阪市の北部一帯です。元和二年(1616年)に立藩し、寛永元年(1624年)に廃藩となりました。八年ほどの藩です。

藩主は稲葉紀通ただ一人。石高は四万五千七百石で、小藩ではありません。柴島城を居城とし、柴島から南江口までを治めていました。

なぜ廃藩になったのか

稲葉紀通は丹波の福知山藩へ移されました。その背景には、大坂城のまわりを幕府の直轄領で固めるという所領の再編があります。

大坂夏の陣が終わったのは元和元年です。豊臣家が滅んだあと、幕府は大坂を直接押さえにかかりました。中島藩の廃止は、その一環でした。

尾張の中島ではありません

愛知県の一宮市や稲沢市のあたりに尾張国中島郡という地名がありますが、そこを藩庁とする中島藩はわかっていません。中島藩といえば摂津のこの藩を指します。

城跡は、いま阪急の駅の東にあります

大阪市の説明によると、柴島城跡は東淀川区柴島二丁目十九番五号の地先、阪急柴島駅の東およそ二百メートルです。周囲より一、二メートル高い約二百メートル四方が城跡と推定され、字名に「本丸」「城道」が残っています。遺構はなく、石碑が立つだけです。

中世の柴島城は西国から京都への要地で、細川晴賢や三好政長が拠り、天文十八年(1549年)の江口の戦いで三好長慶が攻略しました。築城者は十河一政とも一存とも伝わります。稲葉紀通の居所がこの中世の城と同じ場所だったのかは、はっきりしません。廃城の時期も分かっていません。立藩年も、元和二年(1616年)とする辞典類と、元和三年(1617年)とする東淀川区の説明があって揃っていないのが実情です。

春日局とつながる家

稲葉紀通は稲葉一鉄(良通)の曾孫です。良通から重通、道通、そして紀通という系統で、父は伊勢田丸藩初代の稲葉道通。慶長十二年(1607年)に父が死去し、五歳で家を継ぎました。春日局は重通の養女で、重通の養子 稲葉正成の妻にあたります。つまり紀通と春日局は、重通を介した姻戚です。

大坂を直轄にする、その一手

中島藩がなくなった背景は、大坂の再編です。元和五年(1619年)、松平忠明が大和郡山へ移されて大坂藩は廃され、大坂は幕府直轄地になりました。同年、大坂城代(初代 内藤信正)が置かれ、八月二十二日には大坂町奉行として久貝正俊と嶋田直時が任じられます。元和九年(1623年)には京橋口・玉造口の大坂定番二名。

そして城代を務めた内藤信正は高槻、戸田氏鉄は尼崎。大坂のまわりを譜代で固めていく流れのなかで、四万五千七百石の外様の藩が淀川べりに残る理由はなくなりました。寛永元年(1624年)の福知山への移封は、その線の上にあります。

福知山での最期

紀通の晩年は穏やかではありません。慶安元年(1648年)八月二十日、福知山城中で自ら命を絶ちました。四十六歳です。切腹とする『徳川実紀』と、鉄砲によるとする土佐藩主の書状があり、死の様子すら食い違います。宮津藩の京極高広に鰤を求めたところ頭のない鰤を百本送られて激怒したという話も伝わっており、近隣との関係が悪化していた様子がうかがえます。

幕末の柴島は「田安家領」

『旧高旧領取調帳』を見ると、幕末の柴島村は「田安家領分」で四百二十六石余です。幕府領でも大名領でもなく、御三卿の一つ田安徳川家の賄料でした。藩が去ったあとのこの土地は、将軍家の一族を養う財源になっていたことになります。

もう一つ、この一帯を語るのに欠かせないのが中島大水道です。延宝六年(1678年)三月十一日に着工した排水路で、延長九・五キロ、幅九〜二十三メートル。願い出た三人の庄屋は同年四月九日に自ら命を絶っています。この工事が幕府普請だったのか、百姓普請として許された自普請だったのかは、同じ大阪市の区の説明のあいだでも書き方が違います。

大坂の舅の隣に置かれた婿

舅は松平忠明

稲葉紀通は大坂藩主・松平忠明の婿で、元和2年(1616)に摂津国西成郡の中島に封じられました。忠明は家康の外孫です。大坂を治める舅の隣に婿が置かれ、元和5年に舅が大和郡山へ移った後、中島藩もほどなく廃されています。紀通の父・稲葉道通は関ヶ原で徳川方として功を立て、伊勢田丸藩の初代藩主となった人物です。

稲葉騒動

紀通の初陣は慶長19年(1614)の大坂冬の陣とされます。慶安元年(1648)8月、江戸へ来て弁明するよう命じる奉書が出され、その2日後に自害しました。この一件は「稲葉騒動」とも呼ばれます。『藩翰譜』によれば、殺された家臣の家族が謀叛を訴え出たことや、他家の飛脚を誤って殺したことがきっかけとされます。

家の断絶

嫡男の大助は春日局の孫・稲葉正則に預けられ、翌年赦されて家の財産を継ぎましたが、慶安4年(1651)に4歳で亡くなり、家は絶えました。

考察:舅の存在が藩の存在理由だった

中島藩は、大坂の陣後の大坂を固めるための配置の一部だったと考えられます。舅が去ると藩の役目も終わった。藩が独立した領国ではなく、幕府の配置図の駒だった時代をよく示していると思います。

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