三草藩の歩み
越後国高柳藩主「丹羽薫氏」は元文四年(1739年)大坂定番を任じられ、河内国・播磨国・美作国に所領を移されました。さらに河内国の所領を播磨国内に移され、三草に陣屋を構えて三草藩が成立しました。所領の播磨への移動は延享三年(1746年)とする資料と寛保二年(1742年)とする資料があり、上三草に陣屋が構えられたのは延享三年とされます。この丹羽氏は戦国時代には織田氏の家臣でしたが、織田信長の重臣「丹羽長秀」の家とは別家です。先祖の「丹羽氏次」は信長・信雄に仕えましたが、「小牧・長久手の戦い」以前に「徳川家康」の家臣となっていました。
文久三年(1863年)九月十日、藩主の丹羽氏中は大番頭に就任しましたが、慶応三年(1867年)三月一日に解任されます。慶応四年(1868年)二月二十六日には新政府に対し勤王誓書を提出して上洛し恭順の姿勢を示します。戊辰戦争が勃発すると新政府軍に軍資金を提供するなどして協力しました。
明治四年(1871年)、廃藩置県により三草県となりました。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入されました。藩主家は明治二年(1869年)に華族に列し明治十七年(1884年)に子爵となりました。
播磨三草の丹羽家
三草藩は、播磨国加東郡(現在の兵庫県加東市)に置かれた一万石の藩で、藩主は丹羽家、陣屋を構える小藩でした。播磨内陸の地を治めた、小さな大名家でした。
上洛して軍資金を献上
戊辰戦争において三草藩は、新政府の要請に応じて京へ上り、新政府方として行動しました。とくに、財政の限られた小藩ながら軍資金を献上して新政府を支えています。兵力の乏しい小藩が、資金の面から新政府に協力するという形で時代の転換に加わった、その一例を示す藩です。
帰ってこない藩主のための武家屋敷
三草藩は参勤交代の義務がない江戸定府の大名でした。藩主は江戸にいて、三草には帰ってきません。その藩に武家屋敷が残っているのは、藩主が訪れたときの宿舎として使われたためと伝えられます。
「三草藩武家屋敷旧尾崎家」は加東市上三草にあり、市指定文化財(建造物)です。平成五年四月二十七日の指定で、制作年代は十八世紀後半。敷地五百十三平方メートル、母屋およそ百四十一平方メートルで公開されています。尾崎家は、幕末に藩の大目付を務めた三十石取りの藩士の後裔です。
陣屋の中身
陣屋は加東市上三草、いまのやしろ国際学習塾のあたりにありました。石碑と説明板が立つだけで遺構は残っていません。
規模はおよそ五千坪で、三草川と街道に接していました。周辺には「お小屋」と呼ばれる武家屋敷をはじめ、徒士長屋、足軽長屋、役所、学問所、槍剣術稽古所、馬場、和銅稲荷社が配置されていたといいます。川を自然の堀に見立てた構えです。
義経が夜襲した山
三草は古代・中世を通じて、京都から西国への幹線だった京街道(丹波道)の要衝でした。
そしてこの地名は、合戦の名でもあります。寿永三年(1184年)二月四日、京都を出発した義経軍は同日中に小野原(現在の丹波篠山市今田町)へ着き、播磨の三草山の麓に陣取る平家の軍勢へ夜襲をかけました。一ノ谷の前哨戦です。そのあと鵯越までどう進んだかは記録がなく、説が分かれています。藩の名になるより六百年近く前から、この地名は軍記のなかにありました。
子爵になったのは、子の代
丹羽氏中は天保七年(1836年)生まれ。嘉永六年十二月八日に家督を継ぎ、文久三年九月十日に大番頭、慶応三年三月一日に解任。慶応四年二月二十六日に勤王誓書を提出し、三月二十二日に上洛しました。明治二年六月二十三日に知藩事、明治四年七月十四日に免官です。
そして明治十七年四月二十一日、四十九歳で亡くなっています。同年七月の華族令で子爵を授けられたのは、明治十一年に家督を継いでいた子の丹羽氏厚でした。
岩崎城の討死から続く家—一色丹羽家の三草藩
尾張岩崎城の丹羽家
三草藩の丹羽家(一色丹羽家)の先祖の城は、尾張の岩崎城(いまの愛知県日進市)です。小牧・長久手の戦いで、丹羽氏次の弟・氏重が岩崎城を守り、池田恒興・森長可の軍に攻められて討死しました。氏次は関ヶ原の功で三河伊保一万石を与えられ、伊保藩の初代となっています。家格は譜代です。
岩村から高柳、そして三草へ
丹羽家はその後美濃岩村の藩主となりましたが、元禄十五年(1702年)、家中の騒動の責任を問われて越後高柳へ移されました(高柳藩)。のちに播磨三草(いまの兵庫県加東市)へ移り、三草藩となります。参勤交代をしない定府の大名で、菩提寺の妙仙寺も藩領に移されました。幕末の領地は美嚢・加東・多可・加西の四郡三十三か村でした。
源平合戦の地
三草陣屋の近くは、源義経が平家を破った「三草山の戦い」の地です。京都から姫路へ向かう道筋にあたります。陣屋跡の近くには、藩士の住まいだった旧尾崎家住宅(加東市指定文化財)が残り、三草川沿いには松並木が続いています。
最後の藩主・丹羽氏中
最後の藩主・丹羽氏中は天保七年(1836年)生まれで、伯父の五代氏賢の養子となり、その娘を正室に迎えました。戊辰戦争では新政府の求めに応じて上洛し、軍資金を差し出しています。明治十七年に四十九歳で亡くなり、墓は西麻布の長谷寺にあります。岩崎城で討死した弟の家が、尾張から三河、美濃、越後を経て播磨にたどり着く。三草藩は、長い国替えの旅の終着点でした。
三草藩をもっと詳しく
岩村城を明け渡した日
丹羽家が城持ちの大名から定府の小大名へ落ちたきっかけは、元禄15年(1702年)5月に美濃岩村藩で起きたお家騒動でした。苦しい財政を立て直すため、藩主の丹羽氏音は山村瀬兵衛を側用人に取り立て、減禄や畑・林への新しい年貢、家屋や畳にまでかける運上など、厳しい増税を進めさせました。財政は数年で立ち直りましたが、領民も家臣も重い負担に苦しみ、権勢をふるう瀬兵衛に反発した重臣たち30人が徒党を組んで排除を図ります。氏音は瀬兵衛を退かせて新税をやめましたが、騒ぎは幕府の知るところとなりました。6月には徒党の30人が処罰され、氏音も政務を怠ったとして閉門となり、2万石から1万石に減らされて越後高柳へ移されます。このとき丹羽家は、城主から城を持たない大名に、さらに参勤交代をしない定府の大名へと格を下げられました。
岩村城は、丹羽家の残った家臣が守るなか、苗木藩主の遠山友春と信濃飯田藩主の堀親賢が受け取りに入りました。家臣たちは城の俄坂から退去し、9月には新しい藩主の松平乗紀が入って、岩村藩は松平家の藩として幕末まで続きます。城下にあった菩提寺の妙仙寺は、丹羽家とともに越後高柳へ移されました。氏音は同年12月に閉門を解かれましたが、高柳へ赴くことは許されず、宝永2年(1705年)に28歳で江戸で亡くなりました。
甥がつないだ家と、三草への道
氏音に男子がなかったため、甥の薫氏が末期養子となって高柳藩を継ぎました。薫氏は享保4年(1719年)に奏者番、元文4年(1739年)に大坂定番となり、延享3年(1746年)に三草へ移ります。このとき妙仙寺も越後から播磨の山国(いまの加東市)へ移されました。岩村から高柳、高柳から三草と、菩提寺は藩とともに二度旅をしたことになります。薫氏は宝暦7年(1757年)に江戸で63歳で亡くなり、浅草の海雲寺に葬られました。海雲寺はのちに杉並区へ移っています。
4郡33か村の領地と6代の藩主
幕末の三草藩の領地は、播磨国の美嚢郡3村、加東郡8村、多可郡11村、加西郡11村でした。陣屋のある加東郡よりも、北の多可郡や西の加西郡に多くの村が散らばっていたことがわかります。藩主は薫氏、氏栄、氏福、氏昭、氏賢、氏中の6代です。3代氏福は薫氏の孫にあたり、日光祭礼奉行を2度務めたあと寛政元年(1789年)に大番頭となり、天保14年(1843年)に82歳まで長生きしました。5代氏賢は文政10年(1827年)に家督を継ぎ、嘉永6年(1853年)12月に婿養子の氏中に家を譲って、翌年に44歳で亡くなっています。
書道を教えた子爵
氏中の三男・丹羽氏厚は文久2年(1862年)に生まれ、明治11年(1878年)に父の隠居を受けて家督を継ぎました。明治17年(1884年)7月に子爵となり、宮中祗候や芝離宮の勤番を務めたのち、明治26年(1893年)からは久邇宮家で書道を教え、のちに久邇宮家に出仕しています。明治36年(1903年)には従三位に進みました。明治27年(1894年)に生まれた長女の名は三草子で、旧領の名と同じ字が使われています。大正9年(1920年)に59歳で亡くなり、墓所は先祖の薫氏と同じ海雲寺です。
1万石の兵力の目安
慶安2年(1649年)の軍役の規定(案)とされる「1万石あたり235人」を三草藩の1万石に当てはめると、動員の目安は十人単位でおよそ240人です。ただし、この規定は案のまま発布されなかったとする説もあります。定府で藩主が江戸に住む小藩にとって、戊辰戦争で兵を出すより軍資金を差し出す形で新政府に協力したのは、無理のない選び方だったといえます。



