柳本藩/織田家1万石:織田信及 天誅組の乱の鎮圧に関わったとされ、戊辰戦争で新政府軍に属した柳本藩

柳本藩 織田家1万石 最後の藩主 織田信及
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柳本藩の歩み

織田信長の弟で、茶人として名高い織田有楽斎(織田長益)は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に加わって手柄を立て、大和で三万二千石を与えられました(大和・河内で三万石とする資料もあります)。しかしその後は家康には仕えず、豊臣秀頼の大叔父という立場から、秀頼の家臣となっています。大坂冬の陣では豊臣方にいながら、裏では徳川方と通じ、和睦の交渉でも陰で動いていました。

そして「大坂夏の陣」の直前に豊臣氏方から離れ家康に従ったため罪には問われませんでした。しかし有楽斎は所領のうち、一万石を四男の「織田長政」に、同じく一万石を五男の「織田尚長」にそれぞれ分与し、残りを自分の隠居料としました。

こうして、長政の系統は大和の芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として続くことになりました。嘉永五年(1852年)十二月二十七日、信長以来の名家であることから、柳本藩は城主格に引き上げられています。幕末には天誅組の変の鎮圧に加わり、天皇陵の修築も手がけるなど、早くから朝廷の側に近い立場をとりました。明治二年(1869年)の版籍奉還で藩主は柳本藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で柳本県となったのち、奈良県に入っています。

なお、織田信長の織田氏の系統では、織田信雄(次男)の系統が天童藩と柏原藩があり、有楽斎(末弟)の系統では柳本藩の他に芝村藩(戒重藩)が明治維新まで存続しました。有楽斎の系統は野村藩にも存在したが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。

藩の御殿が、橿原神宮で重要文化財になっています

見出しの藩主と、天誅組のときの藩主は別人です

当ページの藩主織田信及が家督を継いだのは慶応四年(1868年)で、兄の信成の隠居によるものです。月日は五月六日とされます。したがって文久三年(1863年)の天誅組の変のときの柳本藩主は、兄の織田信成でした。

名の読み方は「のぶもと」とする説と「のぶひろ」とする説があります。信及は明治十七年に子爵となり、明治二十二年に没しました。

天誅組の変のとき、柳本藩は反乱の鎮圧や天皇陵の修築工事にあたり、早くから官軍に近づいていたとも伝えられます。ただし天誅組の変の一般的な説明に柳本藩の名は出てこず、出兵したかどうか、何人出したかはわかっていません。同じ大和の高取藩が天誅組を大砲で撃退したことははっきり記録されているのと対照的です。→ 高取藩

藩邸の跡は小学校になり、御殿は橿原神宮へ移りました

柳本藩のいちばんの現存物は、柳本にはありません。藩邸は今の柳本小学校のあたりにあり、昭和四十一年まで一部が校舎として使われていました。そして表向御殿は橿原神宮に移築され、昭和四十二年に重要文化財「旧織田屋形」に指定されています。

一万石の陣屋の御殿が、小学校の校舎として使われたあと神宮に移り、国の重要文化財になったわけです。

古墳の上に、藩邸の庭がありました

柳本の陣屋跡のすぐそばには黒塚古墳があります。全長約百三十メートル、三角縁神獣鏡は「全国でも過去最多の33枚」が出土し、画文帯神獣鏡も一面出ています。国史跡の指定は2001年1月29日(文化遺産オンライン)。

この古墳は中世には山城として使われ、近世には柳本藩邸の庭園の一部になったとされ、中・近世に城郭や陣屋として手を加えられたとも説明されています。三世紀の古墳が、江戸時代には藩主の庭だったわけです。

なお「陣屋の堀が古墳の周濠だった」という話もよく聞かれますが、城砦として前方部に堀を新たに掘ったとする説明もあり、はっきりしたことはわかっていません。周濠を含む一帯は、いま柳本公園になっています。

廃藩置県のあとは、柳本県、奈良県、堺県、大阪府を経て、明治二十年に再設置された奈良県に編入されました。郡山藩と同じく、大和は一度府県の地図から消えています。→ 郡山藩

寛永寺の刃傷と、崇神陵の桜

法会の場での刺殺

宝永6年(1709)、寛永寺で行われた綱吉の法会で、同じ接待役の前田利昌(大聖寺新田藩主)が4代秀親を刺殺しました。利昌は切腹となります。家老らは秀親を病死として届け、弟の成純を跡継ぎに立てて改易を免れたと伝わります。将軍の法会の場で藩主が殺された事件は、櫛羅藩の永井家にもありました。

専行院の位牌堂

菩提寺の専行院は黒塚古墳の南にあり、有楽斎・尚長以下歴代藩主の墓が残ります。位牌堂には信長・有楽斎・歴代藩主らを祀っています。柳本町自治会は毎年7月にここで「藩主祭」を行っています。家格は外様、藩主は13代続きました。

崇神天皇陵の修築

12代信成は崇神天皇陵の改修を自ら監督し、幕府と直接交渉して堀を広げる許可と農業用水を引く特権を得たとされます。堤には有楽斎が好んだ桜を植え、明治初めには「柳本の御陵の桜」として知られましたが、明治中期に松へ植え替えられました。

考察:陵墓の修築を「用水」に結びつけた知恵

幕末の陵墓修築は尊王の流れの中で語られがちですが、柳本藩はそこに農業用水の確保という実利を重ねました。理念と暮らしを同時に満たした工事として、小藩ならではのしたたかさを感じます。

柳本藩をもっと詳しく

先祖の有楽斎—本能寺から如庵まで

柳本藩の織田家の祖・織田長益(有楽斎)は、織田信秀の十一男で、信長とは13歳離れた弟です。天正10年(1582年)の本能寺の変のときは、信長の嫡男・信忠とともに二条新御所にいましたが、御所を抜け出し、安土をへて岐阜へ逃れたとされます。信忠に自害をすすめたのも長益だったと後世の書物は伝え、その逃げぶりは京の人々に皮肉られたといいます。

関ヶ原の戦いでは長男の長孝とともに450の兵を率いて東軍で戦い、大和国内で3万2000石を得ました。大坂城を去ったあとは京都に隠れ住んで茶の湯に打ち込み、建仁寺の正伝院を再建した際に茶室「如庵」を設けています。如庵はいま国宝に指定されています。東京の有楽町の名は有楽斎の号に由来するとされ、数寄屋橋御門のあたりにあった屋敷の跡が「有楽原」と呼ばれたことによるという説もあります。

人質から藩主へ—初代・尚長

柳本藩初代の織田尚長は、有楽斎の五男として慶長元年(1596年)に摂津国の味舌村(現在の大阪府摂津市)で生まれました。大坂冬の陣が終わった慶長19年(1614年)12月には、父が豊臣家の重臣だったことから、豊臣家から徳川家への人質として出されています。翌年4月、大坂城を出た父とともに家康に会い、元和元年(1615年)8月12日、父から大和国式上郡・山辺郡のうち1万石を分けられました。兄の長政も同じく1万石を受け、のちの芝村藩の祖となっています。

尚長ははじめ大泉村に陣屋を置き、のちに柳本村へ移しました。柳本の陣屋は、寛永年間に中世の柳本城の跡を利用して築かれたものです。表向御殿のほかに陣屋の西門も移築されて残っています。寛永13年(1636年)には、江戸城の石垣普請も命じられました。

戊辰戦争のときの柳本藩

12代藩主・織田信成は11代信陽の九男で、兄の信宝が安政3年(1856年)に亡くなったため嫡子となり、安政4年(1857年)12月16日、父の死で家を継ぎました。文久2年(1862年)閏8月には、駿府加番の制度がなくなったため、その秋から予定されていた加番を免じられています。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけて崇神天皇陵の補修を行ったのも信成です。

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いのころ、小藩の柳本藩は自分から大きく動くことができず、信成は病を理由に上洛の延期をくり返し願い出ました。旧幕府軍の敗北とその後の情勢を見きわめたうえで、弟の信及を京都へ上らせています。信成は同年5月6日に隠居し、養子とした信及に家を譲りました。明治になってからは京都から東京へ移り、宮中祗候として明治天皇に仕え、明治31年(1898年)2月27日に亡くなっています。

1万石の軍役の目安

慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことが目安とされていました。柳本藩の1万石では、十人単位でおよそ240人になります。ただし、この規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。同じ織田家でも、信長の次男・信雄の流れをくむ丹波柏原藩は2万石で、その倍ほどの数になります。

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