野村藩/戸田家1万3千石:戸田氏良 版籍奉還の年に大垣新田藩から野村藩に改名

野村藩 戸田家1万3千石 最後の藩主 戸田氏良

野村藩(大垣新田藩)

目次

藩の歩み

慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、織田長孝(織田有楽斎長益の長男)は東軍に与して戦功を挙げたため、大野などに一万石を与えられて野村藩を立藩しました。だが、寛永八年(1631年)七月、長孝の子「織田長則」が嗣子なくして死去したため無嗣断絶により廃藩となりました。

なお、織田有楽斎長益は織田信長の末弟です。

その後、大垣新田藩主「戸田氏良」は明治二年(1869年)五月に藩庁を野村へ移して藩名を野村藩と改め、野村藩知藩に任じられました。同年十一月、本家の藩主「戸田氏共」から三千石を分与され、合計一万三千石を領する藩知事となります。明治四年(1871年)の廃藩置県により廃藩となり、野村県を経て岐阜県に編入されました。

本家・大垣藩との関係

野村藩は、美濃の大垣藩(戸田家)の支藩で、戸田家が治めた藩です。もともとは大垣新田藩(畑村藩)と呼ばれた、大垣藩の分家にあたります。

維新期に藩庁を移して野村藩と改称しました。幕末、本家の大垣藩は鳥羽・伏見の戦いののちいち早く新政府方へ転じており、この分家もその宗家と歩みをともにしています。最後の藩主は戸田氏良です。大垣・戸田一門の支藩でした。

藩の名前になった土地に、藩主は最後の二年しかいませんでした

この藩には、ほかではあまり見ない経歴があります。大垣新田藩と呼ばれていた百八十一年のあいだ、藩庁は美濃ではなく三河にあり、しかも藩主はほとんど江戸に住んでいました。野村へ移って「野村藩」になるのは明治二年、廃藩の二年前です。

順に見ていきます。

藩庁は三河の畠村にありました

大垣新田藩の陣屋があったのは、三河国渥美郡畠村、現在の愛知県田原市福江町です。田原市の沿革はこう書いています。「元禄元年(1688年)には、大垣新田藩が戸田氏成によって成立し、市内福江町にあたる畠村に陣屋を構え」。

そのためこの藩は別名「畠村藩(畑村藩)」とも呼ばれました。「大垣新田」という藩名は、本家の大垣藩から分けられた所領が美濃国内の「新田」だったことに由来します。つまり藩名は分知の中身を指しており、藩庁の場所を指していません。

そしてこの藩は定府(じょうふ)扱いでした。藩主は大坂加番のときなどを除けば、ほとんど江戸屋敷に住んでいました。城を持たず、国元の陣屋にも常住しない大名です。畠村陣屋はおおむね五十五メートル×二十五メートル、四百十六坪ほどの規模で、西側から北側にかけて藩士の屋敷が扇形に並んでいました。陣屋の前身は間宮氏の居館を引き継いだものと見られています。

分家の成り立ち

この家の始まりは旗本です。大垣藩初代戸田氏鉄の次男戸田氏経が、元和五年(1619年)に三河国渥美郡畠村をはじめとする五か村で千五百石を領したのが最初でした。のちに同国額田郡内で七百石を加増されます。

明暦元年(1655年)、大垣藩二代の戸田氏信から美濃国大野郡内の新田四千石を加増され、六千二百石になりました。

そして元禄元年(1688年)七月、戸田氏成の代に、大垣藩四代の戸田氏定から美濃国内の新田三千石を分与され、合計一万石となって大垣新田藩が立藩します。ただし氏成が氏定の弟なのか、畠村戸田家の相続系列の人なのかは資料によって書き方が違い、はっきりしません。

注意したいのは、この三千石が当初は蔵米三千石、つまり現物の米で渡されていたことです。土地ではなく米で支給される三千石を含む一万石の大名でした。のちにこれが美濃国内の領地三千石に振り替えられます。

領地は美濃と三河に散っていました

旧高旧領取調帳にもとづくデータでは、大垣新田藩の領地は二十二か村・一万二千二百八石です。内訳は次のとおりです。

美濃国大野郡十か村:政田村・瀬古村・八木村・宝来村・寺内村・牛洞村・大洞村・府内村・木曾屋村・有鳥村。三河国渥美郡七か村:日出村・伊川津村・古田村・畠村・向山村・亀山村・伊井新田。三河国額田郡五か村:樫山村・細野村・光久村・牧平村・滝尻村。

ここで大事なのは、この一覧に安八郡や不破郡の村が入っていないことです。つまり大垣新田藩の領地は、本家の大垣藩がある大垣の周辺ではありませんでした。美濃側の所領は大野郡、いまの岐阜県揖斐郡大野町のあたりに固まっています。越前や河内の飛地はありません。

明治二年五月二十七日、ようやく野村へ

幕末の藩主は戸田氏良(うじよし)です。天保十年(1839年)五月二十八日生まれ。実父は大垣藩九代の戸田氏正で、その次男として生まれ、大垣新田藩七代の戸田氏綏の養子となりました。安政二年(1855年)五月二十一日、氏綏の死去により家督を継いで八代藩主。同年十二月十六日に従五位下・淡路守。慶応四年には数え三十歳です。

歴代八代は氏成・氏房・氏之・氏養・氏興・氏宥・氏綏・氏良。五代氏興が左近将監であったのを除き、ほかの七人はいずれも従五位下・淡路守でした。官位まで代々同じという、きわめて定型的な家です。

戊辰戦争では新政府に従って北越戦争に出兵し、明治二年六月二日に軍功として二千両を賜ったと伝わります。ただし慶応四年正月の鳥羽伏見における立場を示す記録は見つかりません。本家の大垣藩は鳥羽伏見で幕軍として戦い、その後に小原鉄心が藩論を勤王へ統一しましたが、江戸定住の分家がそのとき何をしていたかは分かりません。

そして改称です。明治二年(1869年)二月十二日、氏良が版籍奉還を申し出ます。同年五月二十七日、陣屋を三河国渥美郡畠村から美濃国大野郡野村へ移し、藩名を大垣新田藩から野村藩に改めました。

改名の理由は、本家との区別ではありません。新政府が藩名に用いる「城邑の名号」として適切な郡村名を申し立てるよう指示したためです。藩名は藩庁の実所在地の郡村名にせよという方針が出たので、藩庁を移し、その地名を藩名にした、という順序になります。同年十月二十三日、氏良は野村藩知事に任じられました。

ただし移った先の陣屋は、すぐには建っていません。とりあえずの形で置かれたのち、明治三年(1870年)二月に新政府へ陣屋の建設を上申し、同年七月に完成を報告しています。陣屋ができたのは、廃藩のわずか一年前です。

石高もこの時期に動きました。明治二年十一月、本家の藩主戸田氏共から三千石を分与され、合計一万三千石となります。明治三年時点の管轄地は美濃国大野郡十四か村(七千五百五石余)と三河国渥美郡六か村・額田郡五か村(計五千六百二十七石余)で、管轄高は一万三千二百十一石余でした。

野村はどこか ― 大垣市ではありません

ここは取り違えやすいところです。野村藩の野村は、現在の岐阜県揖斐郡大野町の「野」にあたります。大垣市ではありません。美濃側の所領が大野郡にあったことと一致します。

そして大野町を訪ねるときにもう一つ注意が必要です。大野町が紹介している土塁と堀は、戸田家の陣屋跡ではありません。

実は美濃の野村には、もう一つ別の野村藩がありました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦功で織田長孝(織田有楽斎長益の長子)が大野郡野村などに一万石で入封した藩です。長孝は本町・西町・大手町などからなる城下町を建設し、慶長十一年(1606年)七月に没しました。寛永八年(1631年)七月、子の織田長則が嗣子なく没して絶家・廃藩となります。

大野町の公式の説明が伝えている「河内守邸跡の西区画には当時の土塁と堀が残存しており、邸跡の南一帯は『西町』と呼ばれている」というのは、この織田河内守(長孝)の邸跡のことです。町の天然記念物「野村モミジ」も、織田長孝が養老山中で見つけたカエデを野村の邸内に移植したのが起源とされます(昭和四十二年五月二十六日指定、大野町大字野千二百四十四番地一。原木は1800年代初頭に枯れ、現在は三代目です)。

いっぽう、戸田家が明治二年から四年まで使った陣屋そのものの遺構や碑については、自治体の公式資料でも確認できません。大野町の指定文化財の一覧にも、戸田家や陣屋に関わるものは入っていません。

三河の畠村陣屋のほうも残っていません。1989年のスーパーマーケット建築で遺構は失われ、2016年4月に福江公園が完成しました。明治二年に藩庁が野村へ移ったあと、畠村陣屋は出張所として使われていました。

野村県は、大垣県とは別の県です

明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で野村藩は野村県となり、氏良は免職されます。

ここも混同しやすいところです。野村県は大垣県を経て岐阜県になったのではありません。岐阜県の公式の沿革はこう書いています。「笠松、大垣、加納、岩村、郡上、苗木、今尾、高富、野村の九県が、明治四年十一月に統一され岐阜県となりました」「十一月二十二日美濃国一円をもって『岐阜県』が設置された」。つまり野村県と大垣県は並び立つ別の県で、両方がまとめて岐阜県になりました。本家と分家が、県になってからも別々に数えられていたわけです。明治五年(1872年)三月十日に岐阜県へ接収されました。

本家との対比

戸田氏鉄が寛永十二年(1635年)に摂津尼崎から大垣十万石へ入り、以後十一代二百三十五年にわたって戸田家が大垣を治めました。氏鉄は俸禄制と新田開発を進め、二代氏信の時代に「定帳」の原型ができています。藩校は致道館(のち敬教堂)で、天保九年(1838年)の創設。藩医には江馬蘭斎といった蘭学者を抱えていました。

いっぽう分家のほうは、藩校があったかどうかも分かりません。家臣が何人いたかも記録が確かめられません。分かっているのは、藩士の屋敷が三河の陣屋の周りに扇形に並んでいたことと、藩主本人は江戸にいたことだけです。

本家が城と藩校と蘭学者を抱えていたのに対し、分家は城も藩校も持たず、藩名になった土地に藩庁を置けたのが最後の二年だけだった。一万石の支藩というのは、こういう姿をしていました。

場所・アクセス・地図

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