櫛羅藩/永井家1万石:永井直哉 幕末に新庄から櫛羅へ藩庁を移し名を改めた藩

櫛羅藩 永井家1万石 最後の藩主 永井直哉
目次

櫛羅藩の歩み

文久三年(1863年)、大和新庄藩の第8代藩主「永井直壮」は、「文久の改革」の一端である参勤交代制度改革の余波を受けて陣屋を櫛羅に新設しました。これにより櫛羅藩が立藩されました。ここに藩庁を置いたのは櫛羅が藩領の中でも特に栄えていたところで、要害の地でもあったことが理由とされています。

直壮は領民の移住や集住を奨励し、藩名も正式に櫛羅藩と改めたが、慶応元年(1865年)八月十九日に死去し、後を「永井直哉」が継ぎました。直哉は翌年三月、歴代藩主としては初めて藩領に入部したが程なく幕末、明治維新を迎えます。

そして明治二年(1869年)の「版籍奉還」で直哉は櫛羅藩知事となるが、同4年(1871年)の「廃藩置県」で櫛羅藩は廃藩となり、その後は櫛羅県を経て奈良県に編入されました。

大和櫛羅の永井家

櫛羅藩は、大和国葛上郡(現在の奈良県御所市)に置かれた一万石の藩で、藩主は永井家、葛城山のふもとに陣屋を構えた小藩です。もとは大和新庄の地を治めていた家が、幕末に櫛羅へと拠点を定め、櫛羅藩と称するようになりました。

目立たず過ごした幕末

幕末の櫛羅藩は、当主が代を継いだばかりということもあってか、政局のうえで特に目立った動きを見せることはありませんでした。大和の小藩として、大きな戦火に巻き込まれることなく静かに時代の転換を迎え、廃藩置県までその歩みを続けています。動乱の時代を穏やかに過ごした小藩の一つです。

藩庁のない「新庄藩」から、櫛羅藩へ

この藩の来歴は少し変わっています。永井家はもともと丹後宮津で七万三千六百石を領した家でした。ところが延宝八年(1680年)、四代の尚長が増上寺の法会の席で刺殺されて所領を没収されます。弟の永井直円が大和国の葛上・葛下郡で一万石を与えられ、家名だけが残されました。七万石余から一万石への転落です。

新庄と称しながら、陣屋は置いていなかった

その後、永井家は葛下郡の新庄を居所と称し続けました。ところが新庄には陣屋がなく、知行地を管理する役所は二キロほど離れた松本村にあったとされます。つまり藩名の地に藩庁がないまま、百八十年が過ぎたことになります。

これを解消したのが八代の永井直壮です。葛上郡の櫛羅、葛城山の東の麓にある標高百八十メートルほどの丘に陣屋を新築し、以後この藩は櫛羅藩と称しました。移した年については文久三年(1863年)とする資料と元治元年(1864年)とする資料があり、さらに七代直幹のときとする説明もあって、一つに定まっていません。いずれにせよ幕末の数年のうちの出来事です。

永井家は代々江戸に住む定府の大名でした。九代の直哉が慶応二年(1866年)に初めて領地に住んだとする記述もあります。藩庁を持たない藩が、幕末になって初めて自分の領地に陣屋を構え、そこに当主が住んだ—その数年後に廃藩を迎えたわけです。

最後の藩主

陣屋を築いた直壮は慶応元年(1865年)八月に亡くなりました。跡を継いだのが養嗣子の永井直哉です。嘉永三年(1850年)生まれで、慶応元年十月に家督を継ぎ、同年十二月には大坂加番を命じられています。慶応二年に従五位下・信濃守。明治二年(1869年)六月に藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で免官されました。明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられ、明治四十五年(1912年)に亡くなっています。戊辰戦争でどのように出兵したかはよくわかっておらず、知られているのは大坂加番として京坂の警備にあたっていたことです。

私有地になった陣屋跡

櫛羅の陣屋跡は奈良県御所市大字櫛羅にありますが、現在は私有地で立ち入ることができません。竹藪のあいだに石垣が部分的に見えるという報告と、遺構の確認ができないという報告があり、状況の説明も分かれています。明治六年(1873年)に破却されたとされます。建物は各所へ移され、御所市楢原の九品寺に御殿の玄関、櫛羅の民家に南門が移されたと伝えられます。陣屋跡そのものに文化財の指定はありません。

廃藩後は櫛羅県となり、同じ年のうちに奈良県へ編入されました。その奈良県も明治九年(1876年)に堺県へ編入され、堺県が大阪府に入ったのち、明治二十年(1887年)に奈良県として置き直されています。

増上寺の刃傷と、直勝のひ孫

菊間の譜代

櫛羅藩永井家は譜代で、殿席は菊間とされます。祖の永井直勝は三河大浜の生まれで本姓は長田、小牧・長久手の戦いで池田恒興を討ち取った武将です。直勝から尚政(淀10万石・老中)、尚征、そして尚長・直円へと続きます。

延宝8年の刃傷

延宝8年(1680)6月、家綱の法会が行われていた増上寺で、鳥羽藩主・内藤忠勝が宗家の永井尚長を刺殺しました。警備役どうしの口論が発端とされます。忠勝は浅野長矩の母方の叔父で、21年後、甥の長矩が同じような刃傷事件を起こすことになります。家名を継いだ直円は当時10歳でした。将軍の法会で藩主が殺された例は、柳本藩にもあります。

最後の藩主・直哉

最後の藩主・直哉は下総高岡藩主・井上正瀧の五男で、直壮の養子となりました。正室は公家・飛鳥井雅典の娘です。櫛羅は古くは「倶尸羅」とも書かれました。

考察:赤穂事件の前奏曲

櫛羅藩の始まりには、赤穂事件の21年前に起きたもう一つの刃傷がありました。叔父と甥が同じ過ちを繰り返したことは偶然か、家の気風か。歴史の因縁を感じずにはいられません。

櫛羅藩をもっと詳しく

「新庄」にはもう一つの藩があった

永井家が名乗った「新庄」は、もとは別の大名の土地でした。関ヶ原の戦いのあと、桑山一晴が大和の布施郷に入り、跡を継いだ弟の一直が布施郷のうちの新庄に居所を定めて、屋敷山古墳のまわりに陣屋を整えたとされます。桑山家は一晴・一直・一玄・一尹の4代、およそ80年にわたって新庄を治めましたが、天和2年(1682年)に改易されました。石高は一族への分与などで、2万石から1万1,000石まで減っていました。

永井直円が大和で1万石を与えられたのは延宝8年(1680年)8月7日です。このとき桑山家はまだ新庄にいたため、2年ほどのあいだ両家の領地が重なる形になり、はじめのころの永井家の支配の実態にはわかっていない点が残ります。桑山家の改易後、新庄の町は幕府領となり、城下町としての役割を失って高野街道の宿場町へ変わっていったと考えられています。

三つの郡にまたがる22か村

櫛羅藩の領地は、葛上郡8か村、葛下郡3か村、忍海郡11か村からなっていたとされます。いまの御所市・葛城市のあたり、葛城山の東のふもとに広がる村々です。永井家は代々江戸に住む定府の大名で、藩主の多くは大番頭や大坂定番を務めました。元禄3年(1690年)ごろの大名の評判記『土芥寇讎記』には、領地には知行を受ける家臣が住まず、村の役人がいるだけで、ほかはみな江戸詰めだったと書かれています。

永井家は、徳川家康に仕えた永井直勝の子孫です。直勝の子のうち、尚政の家筋が淀・宮津を経てこの家に、直清の家筋が摂津の高槻藩につながりました。延宝8年に失った丹後宮津の地は、幕末には松平家の領地になっています(宮津藩)。

岸野山の陣屋

櫛羅の陣屋は、葛城山から東へのびる岸野山に築かれました。標高はおよそ180メートルです。櫛羅の交差点から県道213号線を西へ登り、猿目橋のバス停付近で県道が北へ回り込むあたりの、西側の山が陣屋の跡とされます。南門と御殿の玄関のほかに、東門と御殿の一部も民家に移されましたが、こちらは火事で失われたと伝わります。

陣屋ができた年、大和では天誅組が

櫛羅に陣屋が築かれた文久3年(1863年)は、大和が大きく揺れた年でした。8月17日、尊攘派の天誅組が五條の代官所を襲って代官の鈴木源内を殺し、8月26日には同じ大和の高取城を攻めて敗れます。天誅組は9月24日、吉野郡の鷲家口で壊滅しました。高取城を守った藩の動きは高取藩のページで紹介しています。

1万石の軍役

慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっていました。1万石の櫛羅藩にあてはめると、十人単位でおよそ240人です。この規定は案の段階のもので、実際には発布されなかったとする説もあります。家臣のほとんどが江戸に住んでいた櫛羅藩にとって、これは格式の上での目安と考えるのがよいでしょう。

場所・アクセス・地図

近畿の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次